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お互いによって試される

 

 

同じライン上で統一されること、その一致が人々の精神において本質的なものとなること、すなわち人々が相互に理解しあい、一体化し、それが彼らの本質的な性質において同じ深さをもつようになることは、アッラーが信者たちをよくされる際の大切なきっかけ、媒介となります。そして、この一体化し一致している精神は、アッラーがご助力くださるという点で、「ドゥアー大全」を日に1、2回読了することよりもなお、意義のあるドゥアー、祈願となると私は信じています。統一、一致のうちに一体化した人々の精神、心には、アッラーの庇護、援助の御手が伸ばされ、彼らを常に善へ、正しい方向へ向かせられるのです。


この点で、「精神的友情」というのはすばらしいものです。ただ、それだけでは不十分なのです。兄弟となること、一致することというテーマは、感情的なものであるという以上に、意志にかかわるものといえます。それが実現するためには、決意と、意志、そして努力が必要です。信者がお互いを愛することにおいて基盤となるものは、感情的なものという以上に、信仰の一致が集団の一体化へと移行することに結びついている、論理的な友情、兄弟としての愛情なのです。


だからサイド・ヌルシ師は、「あなた方の創造主は同一、主は同一、崇拝する存在も同一、糧を与えられる存在も同一。千にもいたるものが同一である。あなた方の預言者は同一、宗教は同一、キブラは同一。百にもいたるものが同一である。」といわれたのです。


私たちの教えのあらゆる命令は、この方向性のうちにあり、精神の一体化をもたらすべく、方向付けられたものです。たとえば、礼拝は私たちを日に5回、同一というドームのもとに集わせます。先に来た者が前に並び、後から来た者が後ろに並びます。時には、私たちが望まない人と隣り合わせになり、礼拝をせざるを得ない状態が生じます。しかしそこではけんかや怒りのことを私たちは忘れます。

 

列に並んでいる時には、かかとやひじがお互いに触れ、肩があたります。私たちは自分の腕を、隣のいる人のために少々狭めます。額を礼拝用の絨毯につける時には、私たちの腕は兄弟たちと抱き合うような形になります。ほかの兄弟たちのにおいを感じ、彼らも私たちのにおいを感じます。私たちは彼らの不快な部分を目にし、彼らも私たちの不快な部分を目にします。これらはみんな、隣にいる人との間に、一部であれ精神的な接触、一体化をもたらします。私たちが気がつかないような精神的な一体化、心の一体化です。しかし少なくとも、隣にいる人が、逃げ出さなければいけないような、遠ざかっていなければいけないような人ではない、という感覚が、私たちの心に起こります。


サフールやイフタールによって、そしてさまざまなすばらしい出来事によって、あらゆる信者たちと喜びを分かち合うラマダーンの断食、貧者と富裕層の間の重要な架け橋であるザカート。私たちの町にあるモスクの拡大であるマッカの聖モスクで、さらに大きな集団となって集い、さまざまな色、民族の人々と、同じモスクのドームの下、同じテントの中にいること、カーバの周囲でともに周回し、ともに並んで走り、一緒にザムザムの井戸に降りていき、誰か知らない兄弟が使った鉢を使い、ほかの人が水を飲んだ同じ蛇口から水を飲む・・。一致、共同が生じる巡礼。これらすべてのイバーダが、私たちをともに生きるよう呼びかけ、そしてそれに慣れさせているのです。そう、イスラームの根本的な原則にある機知を把握するなら、あらゆる道が一致、一体化、統一といったものを示していることが理解されるのです。


お互いによって試される


基盤にこの精神を持つイスラームを実践する際には、私たちもその一体化に到達できるような態度、振る舞いを、意志を伴って示すことが必要となります。忘れてはならないことは、ほかの媒介によって試されているのと同様に、私たちはお互いによっても試されているということです。つまり、アッラーは、出来事、悪事を行なう者からの災いなどによって試されるように、私たちの兄弟たちによっても試されるのです。聖クルアーンでも、「このようにわれは、彼らのある者で外(ほか)を試みる。」(家畜章第53節)と啓示されています。だから私たちは、ほかの信者たちとの間に生じる関係を、試練のひとつのあり方だとして把握し、あらゆる否定的な感情、思考、行動を、試みの要素としてとらえなければならないのです。


人が、試練の場にあることをきちんと最初から理解できていなければ、あらゆる立場の人が彼に厄介をかけ、手を伸ばしてつかんだすべての枝は折れ、地面は揺らぎ、みんなが彼に対して敵であると思い込むようになります。これらがすべて、試みの要素に過ぎないことを認識できれば、このような思い込みはなくなります。衝撃を与える、醜悪な見かけの出来事が、ごく自然な、安らぎすら与える出来事と化すのです。少しばかり耐えることが必要なのです。


私たちは人間であり、だからいくつかの欠点があることはきわめて当たり前です。人々を個別に観察し、言い分を聞き、精神分析をすれば、彼らの友人たちに対しどれほど不満を抱かせているかを、容易に見ることができます。これは人間の本質として存在するものです。だから、心が広く、優しい顔を持つ人になるように努めなければならないのです。目の前に現れる山々や上り坂を乗り越えていくように、友人たちの過ちをも、しもべとしての道の途中の難所、として受け止め、それらを忍耐と寛容、優しさという翼を用いて乗り越えるべく、努力しなければならないのです。


人は永遠の幸福を求めるものであり、だからまず次のことを考えなければなりません。すなわち、私たちは容易に手に入るようなささやかなものを求めているのではなく、永遠の幸福を求めているのです。私たちの目標がこれほど価値のあるものである以上、その目標の価値に比例する形で、忍耐し、困難を乗り越えることが必要となります。この大きな目標を目指して歩く道の途中で、坂として私たちの前に現れる、気に入らない態度、言葉、行動などを、聖なるその目標のために受け入れ、試練の要素であることを認識し、そしてよい性格でそれらを乗り越え、歩き続けなければならないのです。


だから、私たちが人々の欠点よりも、いい点を見出してそれを評価できればどれほどいいでしょう。他人の過ちに対して見ない、聞かない、話さないという態度をとり、人の欠点を見ず、聞かず、それらを話さずにいられたらどれほどいいでしょう。アッラーが私たちをお許しになられるように、また預言者がお許しにふさわしくあられ、一部のしもべたちをお許しにふさわしい状態になさったように、私たちも皆を許すことができればどれほどいいでしょう。


イスラームは、人々の欠点を追及せず、望まないものを見た時は目を閉じることをサダカと見なします。聖クルアーンでは「順境においてもまた逆境にあっても、(主の贈物を施しに)使う者、怒りを押えて人々を寛容する者、本当にアッラーは善い行いをなす者を愛でられる。」(イムラーン家章第134節)とされています。

 

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