ひとこと

今回のフランスの新聞社の風刺画の問題とテロ行為について。

テロで犠牲になられた方々、そのご家族やご友人、関係者の皆様に哀悼の意を表します。

この悲しみが早く癒され、困難な状況の中で忍耐強くいられますようお祈り申し上げます。

私たちは、今回の事件に悲しみ、大きなショックを受けています。

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まず、どのような理由があっても、テロ行為は許されることではありません。

イスラームでは、どんなに自分を貶める行いをされたとしても、悪を善で返すということが絶対的なルールだからです。

それは、私たちが尊敬し愛するお方、預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)が生き方を通して、私たちにお示しになったことです。

テロ行為はイスラームの教えと、預言者様が示された行いの真逆をいくものであり、アッラーの名を冒涜するものに他なりません。

またもう一つ、フランスの新聞社が掲載した風刺画について。

フランス国内だけでなく、各国のメディア機関の姿勢も様々で、「言論の自由」などの主張から擁護する意見も多くあるようです。

この問題は至ってシンプルなものです。例えば、誰でも自分の家族、両親などを揶揄されれば、憤りを隠せないでしょう。そこに「言論の自由」などあり得ません。なぜなら、誰かが大事にしているものに敬意を払わなければいけないことを皆知っているからです。

預言者様は、ムスリムである私たちにとって家族以上の思いを抱いている特別で大切なお方です。メディアは時として、国や社会の不均衡や不正を暴き、正義を持って世界を変えることもできる素晴らしい媒体です。だからこそ、「言論の自由」だと権利ばかり主張するのではなく、まず人として良心に問うて欲しいと願います。

ここで大切なことは、ムスリムである私たちの姿勢です。

この風刺画問題、そしてテロ行為の両方に対して、正しい姿勢をもって応じる必要があると思います。自分が傷ついたと言って、相手を傷つける行為はイスラームでは許されません。残念ながら、各国ではデモも暴徒化し様々な被害も出ています。自身の姿勢を示すとき、怒りなどの感情から破壊的にならず、イスラームの教えと預言者様の行いに沿うべきです。

テロをはじめ、暴力的な行為では全く解決しないのは明白です。

微力ながら、私たちはこの媒体を使って自分たちの姿勢を示すことにしました。

また、直接この問題に関わることがないとしても、私たちの振る舞いから、人のイスラームに対するイメージは作られます。一人一人がムスリムの代表です。譲れない部分を大切にすることと、相手への寛容さ、優しさをもった振る舞いの両方のバランスを信仰を持って示すことができますように。

以下、風刺画問題に対する私たちの姿勢とテロ行為について、ある文章からの抜粋です。

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かつて預言者は「誰も自分の両親を罵ってはならない。」と言われました。教友たちは好奇心を持って尋ねました。

「おぉアッラーの預言者様。どうしたら自分の両親を罵ることができるでしょうか。」

すると預言者は「他の人の両親を罵る。相手はそれに対する報復として、あなたの両親を罵る。すなわち、あなたは自分の両親を罵ったことになるのである。」

アッラーの目には、あたかもこれらの言葉を自分の両親に対して使ったのと同じように映るのです。 私たちは私たちの社会そしてその美徳の中にいます。私たちのとることができる手段の限界は限られているでしょう。そのため、ルールなしで向かってくる人々と戦うのは簡単なことではありません。私たちは腰より下を殴ることはできません。しかし、相手はこのルールに従いません。私たちは目やまゆげは殴ることはできませんが、相手は殴ってきます。このような試合場では戦うべきではないでしょう。傷付くのは私たちですから。他の人にとって神聖なものに対して冒涜してはいけません。不適切な言葉は発してはいけません。それに対して相手が私たちが神聖としているものを冒涜してくるからです。 健全な対応 これが私たちの宗教が教える方法です。私たちは今回のような失礼なことに対して黙っている訳にはいきません。何かしなければなりません。しかし、自分の対応が本当にこのような攻撃を取り除くのに役立つ方法なのかよく考える必要があります。言い換えると、解決を見いだすために現実を注意深く見つめなければならないということです。罵りの仕返しに罵る、旗を焼く、侮辱する。このようなことは問題を解決しません。それどころか、このような反応は相手側の暴力と憎悪を増加させるでしょう。このような態度は彼らの立場を正当化させてしまうかもしれません。「ほら、この人たちは些細なことについて怒り狂うんだ。」と彼らは言うでしょう。 この愚行に直面してもなお、私たちは理性に従って行動すべきなのです。これを取り除き、私たちの預言者と聖クルアーンの両方に対する私たちの敬意を示すためには、どのような議論を使ったらよいのでしょうか?彼らが犯した罪はきちんと対処されなければなりません。彼らの旗を燃やすことは何を達成できるでしょうか?こういった行為は同じ方法による報復でもなければ賢い行為でもありません。これはただ自分の復讐と憎悪の感情を示すだけであり、さらに他の人の憎悪を増加させてしまいます。今は洗練された行為が必要とされている時です。彼らは洗練されていません。酢を使うよりも蜂蜜を使った方が多くのハエを捕まえることができるのです。どんなことがあっても冷静さを保ち、落ち着いていなければなりません。決して自分の信仰を汚してはいけません。しかし、これを取り除く努力をしなければなりません。どのようにしたらよいのでしょう?ハディースに記録されているように、悪は善良で親切なものによって追い払わなければなりません。私たちは信仰する者の態度を示すのです。 理性的な行為 今、全世界が私たちに注目しています。何かの試合が行われているようなものです。私たちはこの試合のルールに従わなければなりません。この試合の方法で得点する必要があります。世界は私たちの味方をしてくれるでしょう。この問題が国際法のレベルで検討されたとき、正しいのは私たちだという結論がだされるはずです。人々はこう言わざるを得なくなっているでしょう。「彼らは全く態度を変えなかった。彼らは常に理性的に行動していた。彼らは不適切な行動はとらなかった。」相手は私たちを挑発しているのです。もし私たちが彼らの期待通りに行動したら、彼らは別の問題についても同じような方法をとるでしょう。これが私たちの弱点なのです。私たちがこの弱点を明かせば明かすほど、彼らはもっと私たちを挑発してくるに違いありません。彼らは私たちにデモ行進をさせることになるでしょう。私たちがもはや全く価値を持ち得ないというところまで私たちを引きずり降ろすでしょう。私たちを世論という檻に閉じ込めるでしょう。そして私たちを絶滅させることで、誰も不安を感じることがなくなるのです。私たちは注意しなければなりません。これらの行動は賢明ではありません。相手と同様の方法で報復している人々は、自分の感情を満たす機会を奪われ、欲求不満と偏狭さの犠牲になっていますが、道理にかなった賢明な行動をとってはいないのです。 思想の自由 報道の自由は他人に対する侮辱を正当化するものではありません。もしあなたが他の人の妻について出版しようとしたら、すぐに異議や反論、訂正などを受けることになるでしょう。

もし報道の自由を楯に「イギリス皇室」や「フランス市民革命・ロベスピエールの国」や「バイキング」について否定的なことを出版すると言ったら、彼らはどのように反応するでしょうか?

あなたは「これは報道の自由だ。私は自由に自分の考えを表現しているだけだ。」と言うだけではすまないでしょう。 表現の自由は誰かに他人を中傷する権限を与えるものではありません。これは確かに自分の考えを広める自由ですが、もし他の人の考えを考慮できないのであれば、

その人にはその自由を与えないということになります。自由と自由の間には境界線があるはずなのです。 私たちは誰に対しても敬意を持って接しなければなりません。彼らは(風刺画で)重大な罪を犯しました。これはどう見ても侮辱です。彼らは注意すべきでしょう。 

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「イスラームはテロを認めているのか?」

※この文章は、アメリカ同時多発テロの際に書かれたものです。

アメリカで起きた悲劇的なテロ事件がきっかけとなり、私たちは、こうした出来事に対する「クルアーンの言う真の公正さ」、

「あるひとりの人間の生きる権利は全人類のためであっても犠牲にされてはならないこと」、

そして「ある人間の犯した過ちのためにその友人や近しい者たちもがその責任を問われることはない」といった真実を示したいと思いました。

なぜなら聖クルアーンの視点は、来世と同様、現世においても人間は平和と幸福のうちに生きるべきであると最上級に明言しているのですから。 このことから、人間、特にムスリムには、聖クルアーンの命ずるところに従い、中庸(ちゅうよう)であることが求められ、

あらゆる残虐行為に反対し、常に人類の平和と幸福のために積極的に努力する義務があるのです。 『人を殺した者、地上で悪を働いたという理由もなく人を殺す者は、全人類を殺したのと同じである』 聖クルアーン 第5章 (食卓章/アル・マーイダ)第32節 この節の意味するところは、無実のひとの権利がたとえ全員のためであっても取消されることはない、ということです。

ただ一個人のことであっても、皆の満足のためにそれが犠牲にされてはならないのです。偉大なるアッラーのご慈悲のもと、権利は権利として認められており、その大小は問われません。

小さなことが大きなことのために損なわれてはなりません。ある共同体のやすらぎのために、個人の同意もないまま、その生命や権利が踏みにじられてはならないのです。 『人びとよ、われはひとりの男とひとりの女からあなたがたを創り、種族と部族に分けた。これはあなたがたを、互いに知り合うようにさせるためである』 第49章(部屋章/アル・フジュラート)第13節 つまり、『(アッラーは)あなたがたを民族ごとに、部族ごとに創った。互いに知り合い、社会生活での関わりを知るように、互いに助け合うようにと。あなたがたを部族に分けたのは、他者を拒み、よそ者扱いにし、敵対し合うようにするためではない』ということです。 この聖なる節に定められた内容については、次のように説明できます。 ちょうど軍隊は大隊に、大隊が中隊に、中隊が小隊に、そして班にまで分けられます。そしてそれぞれの兵士は自分自身の任務をよくわきまえなくてはなりません。そうして軍隊の兵士たちは、協調しつつ、真のまとまりの中で義務を果たし、社会生活の敵や攻撃から自分を守ることになります。 このように分かれていることは、小隊同士が戦い、中隊同士が敵対し合い、大隊同士が攻撃し合うためではないのです。 イスラームの最も重要な要素のひとつは、「慈しみの心を持つこと」そして「危害を加えないこと」です。 なぜなら、『荷を負う者は、他人の荷を負うことはできない』 第35章(創造者章/ファーティル第18節)のです。 つまり、「ある人が過ちを犯したからといって、その周囲の人もしくは友人が過ちを犯したことにはならない。(本人以外を)罰するには値しない」というアッラーの原則、アッラーのご意思に対して、 『人間は、本当に不義であり、忘恩の徒である』 第14章(イブラーヒーム章)第34節 という含意に満ちた、冷酷なまでの答えが返ってきます。 ある者が殺人を犯したことで、仲間意識をもつ被害者の側には、ただその一味にだけでなく、その周囲の者たちにも敵対感情が生まれ、彼らに対して迫害を行なおうとするかもしれません。それが権力者であれば、その犯罪者の過ちのために、村に爆弾を落とすのです。 無実の者の権利は、多数の悪人 のために犠牲にされてはなりません。そのために、無実の者が迫害されてはならないのです。

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書籍のご紹介です。

ご購入ご希望の方は、「お問い合わせ」からお申込み下さい。

「イスラームの観点からテロと自爆攻撃」

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エルギュン・チャパン(監修)、小村 桜(訳)

The Light Inc.、113ページ、 \500

「イスラームの観点から テロと自爆攻撃」は、現在まで10か国語に翻訳されています。

特に西洋諸国、そして他の非イスラーム諸国において、イスラームの教えの根源においてテロ行為がどのように位置づけられているか、罪もない人々が宗教上の必要性という名目で自爆攻撃によって殺されることが、本当に教えに基づいたものなのか、という問いへの答えを示す書籍が必要とされています。「イスラームの観点から テロと自爆攻撃」は、専門知識を持つ神学者たちによって、教えの源からの引用を伴い、また歴史上の過程における適用などが行なわれつつ、こういった問いに答えが与えられています。

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