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シリーズ 「私の入信記」 ep.3


私には、シャハーダ(信仰告白)の経験が二回ある。

一回目は、結婚する際のシャハーダ。二回目は、ムスリムとして生きていく決意を込めたシャハーダ。前者を、シャハーダ(信仰告白)と呼ぶことさえも、今となってはその、「信仰告白」という言葉の重みに対して恥ずかしささえ感じてしまう。

アッラーは人をどのようにお導き下さるのか。私はムスリムの仲間のシャハーダまでの経緯を、失礼と思いながらも、非常に興味深く聞いてしまうタチなのだが、それぞれ十人十色にドラマがあることに感慨を覚える。つまり、どこの国で生まれようと、生まれながらにムスリムでも、そうでなくとも、真面目でも不真面目でも、過去によい事をしても、悪い事をしたとしても、わけ隔てなくアッラーは私達にイスラームへの道を用意して下さっているという事に、気づかされるのである。

わけ隔てない証明として、アッラーは私もお導き下さった。

私は結婚に際して、自分なりにはイスラームの本を読んだだけ、分ったつもりで一回目のシャハーダをした。軽々しくしたつもりもなかった。ただそれは、私にとっては結婚生活の手続きであって、自分がムスリムとして、身も心も捧げ生きていく自覚をも考えたこともなかった。結果、ただ食事面を気を付けていただけで、義務と言われる礼拝もしなかったし、様々な決まり事の存在も見ないようにしていた。

数年経って、私は私生活を継続しがたいと思う壁に直面する。どうしても乗り越えられない壁、考えても受け入れられない自分。そんな時、ある勉強会に参加した。イスラームの話ではなく、自分の悩みを解決できる糸口をどこでもいいから探したかった。何回か参加するうちに、イスラームは、何か独特な特別の話があるのではなく、日本でも、大事とされるような話に当てはまることが多いということに気づき、身近に感じるようになった。そして、私はイスラームの事などまるで何も分らずに改宗したという浅はかさも身に染みて分った。

一方、私は壁をまだ乗り越えられずにいた。勉強会や友人から多くの学びがあっても、実践できないのは、私の素直でない心・自我のせいだった。でも、そうと分っていても自分でその頑なな心を解き放つことにも限界を感じていた。もがいたあげく、ふと頭に浮かんだのは「礼拝」だった。その頃は、当初よりは少しの知識を得て、礼拝の重要性や意味を少し学んでいた。でも、まだ私の中では「一応」ムスリムの感があり、礼拝をしない自分を後ろめたく感じていても踏み込めずにいた。そんな状態で、穴に入ってしまった自分を頼みにしたのは、逆説的だが、「礼拝」しか他には残っていなかった。(と今は妙に納得してしまう。)

このようにして、礼拝はやっと私の日課になり、全く信じなかった礼拝の効果に非常な驚きを感じた。落ち着くのである。自分自身を見つめる時間。誰かや何かの為に祈る時間。

この時間があると、私がこの世界の主人公ではなくなる。利己主義な私が、少しは心を広く持とうとか、優しくなりたいと思ったりできる。

この後、一回目のシャハーダが気持ち的に中途半端と感じ、友人に頼み、もう一度シャハーダをさせて頂くことになった。これが、二回目のシャハーダである。私の理由は何であれ、いったんシャハーダをしムスリムとなった私は、無知だったゆえ、多くの罪から始まることとなった。今でもそれは、消えることはないだろうが、こんなに中途半端な気持ちでシャハーダをし、するべき事をしてこなかった罪深い私にも、アッラーは私を見捨てることなく、再びイスラームの道を歩むチャンスを下さった。私が誰からも見捨てられ一人になっても、アッラーは私を見ていて下さり一緒に居て下さるという安心感は、私の心がやっとムスリムになったという実感として感じている。

そして、すばらしい友人達に出会い恵まれるチャンスを下さったことに本当に感謝している。後ろ向きだった私を優しく、時に厳しく気遣ってくれ、私が立ち止まったり転んでも手を差し伸べて一緒に歩んでくれる。今もそうだし、きっとこれからもずっとそうなんだろう。私の居場所をこのようなすばらしい仲間達のウンマに選んでくださって本当にアッラーに感謝している。

私のように結婚によって改宗された方もいらっしゃると思うし、過去の私のように形ばかりの改宗で、イスラームをよく知らず生きていることに、一抹の不安や疑問を心のどこかで感じている方のいらっしゃるのはないかと思う。

私は今もなお、試練を乗り越えられず悩み苦しい時がある。一歩進んでも、次の日には三歩下がる。信仰も小さな事で揺らぎ、弱くなる信仰を未だ周りの責任にしてしまう。いつ自分の信仰がなくなってしまうのか恐怖心もある。しかし、イスラームの生き方を実践することを、特別に考えて欲しくないと思う。誰でも、楽しい時に笑うし、信仰があったって苦しい時には悩みもがく。

私達人間が生きるプロセスの中で感じる喜怒哀楽を自分の感情や自我で全てコントロールしてしまったら、今の世の中が進みかけている自己中心的な全てが他人の世界になってしまう。冷たい人間関係、家族、社会、誰だってそのようなものは望まないだろう。誰でも、心が温かくなるものを求めてる。それは、国や宗教や人種など関係なく変わらない。しかし、多くの人が得る術を見つけられないでいるのではないか。私達人間が本来求めてる、心が温かくなるもの・・・その延長線上にあるものが、私はイスラームの生き方だと思う。私は、二回目のシャハーダをしてこのように考えるようになった。

私が今後、ムスリムとしてどのように生きていくか―。試練があっても信仰と共に生きることが当面私の課題だと思う。毎日の礼拝をしたり、仲間と勉強会に参加したり知識を増やしたりすることが、当たり前の行為だとしても、やはり私にはアッラーから遠ざからない為の方法なのだ。そして、もっとアッラーに感謝できるようになりたい。これが一番忘れやすく、私はすぐ「私の人生だから・・・」とか考えてしまうから。今はまだ進む方向性がに狭く偏ってしまうのが恥ずかしいが、もっと成長できるように、心を広く持てるように、そして強い信仰を持てるようにと願っている。そして、インシャッラー、私に仲間がそうしてくれたように、周囲の人を支えていかれるように、また広い視野で役に立てる様なムスリムになりたいと思う。またアッラーがお望みになる私の使命を、今はよく分らなくとも、一生懸命見つけて生きたい。

最後に以前友人が私に教えてくれたクルアーンの一節を紹介したい。私はこの節にいつも慰められ、心強く思う。

「自分のたちのために善いことを、あなたがたは嫌うかもしれない。また自分のために悪いことを、好むかもしれない。あなたがたは知らないが、アッラーは知っておられる。」 聖クルアーン、雌牛章216


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