許しなさい、許される為に
問い:「最たる敵」とはどういう意味ですか?信仰の光に満たされた心に、怒りや憎悪、敵意といった感情が存在することは可能ですか?信者の徳において「許すこと」はどのような位置を占めるものですか?
答え:この教えの精神には、愛情があります。なぜならこの世界は一つの愛の詩として創造され、地上もその詩の韻客とされているからです。自然という書物をよく読む人は、いつでも愛の旋律を聞いているのです。被造物を胸に抱くこの愛情は、人間の結びつきをも、その色に染めます。崇高なその本質を見出し、その本髄の部分に与えられている愛情の種に気づいた人、そして創造主との結びつきを感じることのできる人は、他の人々をもアッラーの芸術作品と見なし、周囲に愛情を抱き、皆を愛するようになるのです。さらには、全ての被造物をその慈しみの中に抱くようになるのです。
信仰の光によって輝かされていない不幸な心は、怒りや憎悪、敵意といった感情に襲われます。師が言っているように、憎悪の闇にいる人は、世界を葬儀場のように、被造物をも互いに関係のない敵であると見なします。彼は全てが互いに敵対しあっていると考え、自らにも様々な敵がいると重い、戦場で、敵に囲まれているかのように不安のうちに生き、ほとんど全てのものに対し警戒を怠らずにいます。だから信仰を得られずにいる人は多くの場合、被害妄想を抱くようにもなります。内面にある不安や恐れのため、親しげでない振る舞いをとり、その態度には表裏が出るようになります。心の中では憎悪や敵意が煮え立っているのにもかかわらず、愛の勇者のように振舞うのです。自分の言葉に自分でも信じていないのにもかかわらず、よいこと、助け合うこと、自分を改めることについてしばしば言及し、その口から蜜がたれるほどになります。その言葉の信用性を増そうと、アッラーを自分の誠実さの証人として示そうとします。クルアーンは、このような偽信者について、
「人びとの中には、この世の生活に関する言葉で、あなたの目をくらませる者がある。そしてかれらは、自分の胸に抱くことの証人としてアッラーを呼ぶ。だがこのような人間こそ最も議論好きな敵である。」(雌牛章第204節)と述べているのです。
最も無慈悲な敵
「最たる敵」とは、その心に愛情や慈しみのかけらすら存在しない「最も無慈悲な敵」を意味します。クルアーンのこの言葉は同じ性質を持っている多神教徒達をも対象とするものですが、解釈書はこの章句がサキーフ族のアフナス・ビン・シュライクについて下されたものであることを伝えています。この偽信者は預言者ムハンマドのもとを訪れ、自分がムスリムであることを伝えます。そして気の向くままにしゃべり、いくつもの誓いをたてます。しかし預言者のおそばから離れるや否や、イスラーム教徒の所有する農場を訪れ、作物を焼き、家畜を壊滅状態に陥れます。信者の作物や家畜に対してすら我慢が出来ない、全てを焼き払いだめにしたアフナスやその同類の人々についてクルアーンは彼らが敵意において激しい状態に達していること、許しや慈しみからかけ離れた存在であることをあきらかにしているのです。
神の存在の否定という道にそれてしまった人の多くは、心も非常にかたくなになっているので、彼らが誰かを許すということはありえないのです。彼らはその世界を怒りや憎悪、そして報復の上に形成しています。針先ほどのものであっても、過ちがあれば必ず気づき、許しを求められても決してそれを認めず、常に怒りで満たされています。彼らはあたかも完全に自我そのものとなっているのです。自己中心主義の精神に逃げ込んでいるのです。従ってあらゆる問題において自分達の都合のいい方向にことを運ばせようと詩、自分達だけを真の意味で愛し、他の人々に対する憎悪や怒りで満たされた生涯を送るのです。憎悪や敵意といった特質は、真の意味で、この信仰の欠如を顕すものなのです。
また同じような、不足している状態である人々がいて、彼らは宗教的な見かけを持ったいくつかの組織に参加しています。しかし神の存在を正しく認識することも、首尾一貫した形で預言者を理解することも、正しい来世への信仰を持つこともできないでいるのです。それに対しては瞑想や祭日に慰めを見出します。週のうち何日か、崇拝行為を行なえる場所に集まり、音楽を聴き、ストレスから逃れようとするのです。
さらに、最近しばしば見かけるものとして、一部のパフォーマーが宗教の名のもとに語る際、-絶対にありえない誤ったことではあるけれども-アッラーを自分達の勘定にあわせて語らせ、メシアの欲望や欲求を話題にしていること、そして誤った考えによってコメントを述べ、宗教を、人々を影響下に置くための媒介として利用していることが多くあります。時には彼らと共に笑い、楽しみ、時にはその影響下に入ってしまう人は、その実践を行なう際にはトランス状態になったような態度をとり、自らを楽にしようと努めるのです。このようにして、楽しむこと、いい時間を過ごすことから慰めを得ようとします。こういう形で、宗教に近いように見せている人々の魂の中にはしばしば、彼らの仲間ではない人への怒りや憎悪、苛立ちが存在するのです。自分達だけを見せつけ、自分達のことばかり話し、全てを自分達に結びつけようとする魂の状態が見受けられるのです。
信者における、不信心の性質
そう、怒りや憎悪、敵意といった感情は多くの場合、信仰を得ることのできなかった人々において見出すこと、被造物への愛着や愛情、全てを抱きしめ全てを心に留め、許し、怒りをとくといった特質は主に信者において見出すことに私達は慣れています。しかし、時にはこれらが入れ替わることがあるのです。教えに対する憎悪の中にいる人が、愛情や寛容の精神で満たされているのを目にすることがあります。彼らも被造物に対して深い愛着を抱き、皆に愛情を持って接し、友情の橋をかけようと努力しているのです。他方で、予想もしなかった、考えもしなかった形で、一部の信者が怒りや憎悪、敵意のうちに日々を過ごしているのに気づくこともあります。
ベディウッザマン師は、全てのムスリムのあらゆる性質がムスリムとしてふさわしいものであることが求められるのにもかかわらず、それはいつでも実現するわけではないこと、同様に教えへの憎悪を抱く人の性質もまた、憎悪によって形成されている必要はないのだということを語っています。そして時には信者に不信心の性質が見られるように、不信心者にも時には信者の特質が見られることを述べています。
例えば陰口や嘘、中傷が不信心者の行動ですが、残念なことに信者の一部もこの醜い罪を犯しているのです。同様動揺に、怒り、憎悪、報復といった感情、そして敵意もまた、不信心者に属する特質であり、信者には存在すべきではないのです。しかし信者の一部はこのシャイターンの罠にはまり込んでいるのです。この逆もあり得ます。すなわち、信仰を味わっていない人々の中にも、他者に対して敬意を払い、うそをつくことも誰かの中傷をすることも不遜に振舞うこともしない人々がいるのです。被造物に対し深い愛着を抱きます。アッラーや預言者、来世での勘定についてしっかりした知識はないものの、知っている範囲であらゆる被造物を「創造主の芸術」と見なし、驚きの中にいます。創造に関する章句をよく読み、宇宙という書物を理解しようと努力し、真剣な探求心で事象を粉砕せんばかりなのです。これらはそれぞれ信者の特質であり、これらの特質は不信心者にあったとしてもやはり美しいものであり、認められます。
アッラーは人々の特性によって判断をなされるのです。従ってこういった素晴らしい特質を持っている人は、不信心者であったとしても、競争相手達に対して一時的ではあれ勝利を収め、その仕事において成功することができます。これを性質が性質に勝利する、と表現することもできます。つまり信者の特質は不信心者の特質に勝っているのです。要するに、信者において不信心者の特質を見出すこと、不信心者において信者の特質を見出すことはいつでも起こりえることです。
許すこと・大目に見ること
同時に、真の信者とは許すことができる人です。許すこととは、過ちや不足、過失、罪を許し、その罪を犯した人を非難せず、その罪に対し罰を与えたりもしないということです。いくつかの章句ではafvという言葉と共にsafhという言葉も用いられます。この言葉も、許すこと、寛容を持って振舞うことという意味を持ちます。ただ、解釈学者の中には、区別としてafvは罪や過失に対し罰を与えないこと、safhは罪や過失をなかったことであるかのように見なし、心にその相手に対するほんのわずかな怒りすら残さないこと、という見解を示す人もいます。
許すことは神の徳の深みです。アッラーが罪を犯したしもべに、現世ですぐに罪を与えられないように、シルク(アッラーのほかに神がいると見なすこと)以外の罪や過ちについては、悔悟する者を審判の日に許され得るのです。私達も自分の行動の不足や過ちを見逃し、罪を許してくださるよう、無限の慈悲の主であるお方に願っています。私達は自分の為にはこのように許しを求めているのであり、また「アッラーの徳を自らの徳とする」ことは重要な基本でもあります。
従って、過ちが暴かれることを望まない、それが寛容のまなざしで受け止められることを望み、来世で許しの宣告を得ることを希望する私達信者も、神の徳の要するところを行い、他者を許し、怒りや憎悪といった感情から遠ざかることが必要なのです。預言者ムハンマドも、「人々に借金を与える商人がいた。困窮している客を見ると、人々に『彼の借金を許してやってください、おそらくはアッラーもあなたを許してくださるでしょう。』と言っていた。この振る舞いと望みのため、アッラーも彼をお許しくださった。」と語っておられるのです。
クルアーンは、信者達に許すことを勧め、それを広い範囲で実践しています。例えば、報復に関する問題においても、信者達に許すことを勧められました。そして「しかしその報復を控えて許すならば、それは自分の罪の償いとなる。」(食卓章第45節)とされています。他の章句でも、
「悪に対する報いは、それと同様の悪である。だが寛容して和解する者に対して、アッラーは報酬を下さる。本当にかれは悪い行いの者を御好みになられない。」(相談章第40節)
と述べられています。さらに、アッラーの大きな免罪や、その広さが天と地の距離ほどである天国へ招かれるであろうアッラーを畏れる人々の特性について、
「順境においてもまた逆境にあっても、(主の贈物を施しに)使う者、怒りを押えて人びとを寛容する者、本当にアッラーは、善い行いをなす者を愛でられる。」(イムラーン家章第134節)
という言葉で説いています。悪の前においても善から離れることなく、敵すらも心からの親友とできるような振る舞いをとることを目標とし、
「善と悪とは同じではない。(人が悪をしかけても)一層善行で悪を追い払え。そうすれば、互いの間に敵意ある者でも、親しい友のようになる。」(フッスィラ章第34節)
「善行によって、悪を撃退せよ。われはかれらの言うことを熟知している。」(信者たち章第96節)
という形で、多勢を前にしていたとしてもイフサーン(恵み・善)の意識から遠ざかることのないよう、呼びかけているのです。
そう、悪の根を最も鋭い剣よりもなおよく切るものは、イフサーンで行動することなのです。アッラーを目にしているかのように、あるいは少なくともアッラーによって見られているという意識を持ち、悪に対して善で応えることです。
例えば、誰かがあなたに「誰それの息子」と言い、あなたの父を否定するような態度に出たとすれば、あなたがなすべきことはその相手の父の最もよい面を述べ、「あなたは誉れある父の息子で、高潔な母の子だ。あなたのことも、彼ら同様、誉れあり高潔な人だと考えていた。どうしてあなたの口からそのようなふさわしくない言葉がでるのか私にはわからない。」という以外には言い返さずにいることです。あなたのこの態度は、相手を自分自身への敬意の喪失へと追い込み、問題が拡大することを防ぐものと私は考えます。
時には、敵対している相手に微笑むことが、彼と彼がもたらす害を防ぐのに十分となることがあります。ベディウッザマン師が述べておられるように、敵を倒す最も容易な、最も確実な手段は、悪に対し善で応えることです。なぜなら、もし悪で応じるなら、そこにある敵意はさらに強まるからです。敵は外見上負けているように見えていたとしても、その心に怒りをため、敵対関係は続くのです。しかしもし善によって応じるなら、相手は後悔し、もしかしたら友となるかも知れません。だから信者は、
「嘘の証言をしない者、また無駄話をしている側を通る時も自重して通り過ぎる者。」(識別章第72節)
「だがもしあなたがたがかれらを赦し、大目に見、かばうならば(それもよい)。本当にアッラーは、度々御赦し下される御方、慈悲深い御方であられる。」(騙し合い章第14節)
といったような、クルアーンの聖なる規範に耳を傾け、その命令に従うべきなのです。
アッラーがあなたを赦してくださることを望みませんか
ここでのテーマに関係のあるクルアーンのある言葉は、中傷事件が起こった際に下されたものです。私達の母アイーシャさまの中傷を行なう偽信者達の噂話や陰口の虜となってしまった三人のムスリムのうちの一人は、アブー・バクルさまの支援によって生活していたムスタフ・ビン・ウサーサでした。アブー・バクルさまはわが娘に対して行なわれた中傷に加わったことを理由に、ムスタフへの支援を打ち切りました。そして今後は彼の面倒は見ない、と宣言した時、クルアーンの言葉が啓示されたのです。
「あなたがたの中、恩恵を与えられ富裕で能力ある者には、その近親や、貧者とアッラーの道のため移住した者たちのために喜捨しないと、誓わせてはならない。かれらを許し大目に見てやるがいい。アッラーがあなたがたを赦されることを望まないのか。本当にアッラーは寛容にして慈悲深くあられる。」(御光章第22節)
神のこの言葉は、アブー・バクルさま(アッラーがお慶びくださいますように)の美点をまず指摘しています。それから、彼を許しへと招いているのです。彼のように恩恵を与えられ、気高く優れた人には、許すこと、大目に見ることが似つかわしいと述べているのです。そして「アッラーがあなたがたを赦されることを望まないのか。」という文章によって、ひとつの救いの道を示しているのです。
この問いにはとても重要な意味が秘められています。皆、自分の過ちが許されることを望みます。過ちが寛容に受け止められ、罪が赦されることを求めます。自分に対しては寛容に振舞われることを期待するのです。欠点がとがめられないことを願うのです。そして「さあ、通りなさい。あなたも赦されたのだ。」と言われることを希望しているのです。そうであるならば、このような許しや寛容さを求める人が他者に対して同様の振る舞いを考える必要はないでしょうか?赦されることを望む人は、まず他者を許す必要があるのではないでしょうか?この意味を理解したアブー・バクルさまは、「アッラーが私をお赦しくださることをもちろん望んでいます。アッラーに誓って、ムスタフへの支援を打ち切ることは行ないません。」といい、彼への支援をその日以降も続けたのです。
そう、あなたは、アッラーもあなたをお赦しくださることを望みませんか?私自身、アッラーが私をお赦しくださるよう望み、そのお方の慈悲から赦しや免罪を求めます。同時に人々によっても許されることを求めています。私達は皆、人間であり、いつでも過ちを犯し得るのです。立ち居振る舞い、飲み食い、話す時、さらには黙っている時ですら、態度や状態、身振りそぶりによって様々な形で失礼な振る舞いを取っているかも知れません。人々がこれを大目に見て、許し、人間として仕方のないことと見なしてくれることを願います。
私達はその多くが、欠損のうちに育ち、次々と問題の生じる時代に生きた子供達です。良い人間を育てることが不可能であった時代に、とげの間でバラの美しさを見せようという努力によって育ってきた哀れな存在です。良い人間になる為の条件が全く与えられていない時代を生きるはんぱな人間です。当然私達には不足があり、多くの間違いを犯すでしょう。単に言葉における過ちにとどまらず、私達の手も足も目も耳も、それぞれに過ちを犯すでしょう。これら全てを前にして、私達はアッラーが自分達を赦してくださることを、アッラーの使徒が赦してくださることを、天使達が「主よ、この者達を憐れんでください。」と私達の為に免罪を求めてくださること、そして兄弟である信者たちも許してくれることを強く求めるのです。過ちや欠点があるからといって全体を否定しないでほしい、信仰の光で見てほしい、注意深くもう一度見てほしい、探ってほしい、レンズをとおしてもう一度見てほしい、と。そして「この人は右も左も闇に包まれているが、それでも小さな信仰の光はある。」として目をその光に集中させてほしい。そこをよく見てほしい。小さなその輝きを大きくとらえてほしい。全ての闇をその光で消してほしい。私達は皆、自分自身についてこのような振る舞いを求めます。それならば、自分の為に求めているこの態度を、皆の為にも求めるべきなのです。このことで物惜しみするようであってはいけないのではないでしょうか?
信者の魂においては良い感情が支配的です。従って彼らは良い形で考え、良い形でものを見、正しく話し、悪を善で追い払います。さらに、権利を守る為に努力している時でも、バランスを崩して他者への敵意を抱くようになったり、ということはしないのです。誰に対しても怒りや憎悪を感じることはなく、個人に対してではなくその悪い性質、動作に対してのみ敵対します。彼らは清らかで素晴らしい徳を持ち、清らかな人には細やかな態度や気持ちの良い振る舞い、きれいな言葉がふさわしいということを知っており、あらゆる考えをその清らかさに適する形で顕します。悪い考え、醜い言葉、品のない態度で誰かを苦しめたりすることはありません。彼らは許すことができる人であるからです。
私の取り分権利を帳消しにしました
ベディウッザマン師の生涯を見るなら、一時彼に師事することが適ったにもかかわらず、師を離れて去っていった人の存在に気づくでしょう。しかし師は、そういった人々を責めるような意味を持つ言葉は一切使っていないのです。あなたは彼の言葉において吉報のみを聞くでしょう。誰かが光の書を書き記すことを放棄して去ったとしても、師は決して「彼は去ってしまった、行ってしまった。」とは言いませんでした。もし、去って行った人のうちの誰かが再び戻ってきて、ペンを取ったとすれば、その時には、「この兄弟は復活の便りを読み、とても気に入ったらしい。それを10部、書き写し、私を大変喜ばせてくれた。アッラーが彼を守ってくれますように!」と言い、その人を評価したのでした。あなたも、どうしても気になって「彼はいつ、去っていっていたのだったか?」と自問するかも知れません。師の生き方には、ネガティブな部分を見る、ということはなかったのです。彼は全てをポジティブな方に結びつけ、あたかも負の出来事を見る目の部分に覆いがかけられているかのようでした。決して闇を見ることはありませんでした。目に見える全てを、その光に結びつけていました。信者や親友、親しい人々のみではなく、敵対している相手をも許すという次元で行き、その言葉によって私達にもその世界を示していました。
「真実の光は、信仰を必要としている心へ影響を与える。ひとりのサイドではなく、1000のサイドもその為に捧げよう。28年間の苦痛や苦悩、私が受けた拷問、私が耐えてきた災い、それら全てを免じよう。私を抑圧した人々、私を町から町へ連行した人々、非難した人々、様々な告訴を行い私を裁こうとした人々、刑務所に私の場所を用意していた人々、全てに対し私は私の取り分権利を帳消しにする。」
そして、相手が不信心者であったとしても、彼に攻撃的であったり、容赦なく、無慈悲に罵ったりすることは崇拝行為でも美徳でもありません。預言者ムハンマドは、ご自身に対し常に非難を行い、いつでも不遜な態度を取っていたアブー・ジャーヒルについてすら、悪い言葉を用いることを勧めておられません。例えば、「アブー・ジャーヒルに対し10回呪いを行なえば、私はあなたの為に仲裁を行なおう。」といったようなことは言われなかったのです。つまり、預言者に対し非難をし、失礼な態度をとっていた人々に対してすら、彼らに対して呪いの言葉を唱えたり、あちこちでその悪事を言いふらしたり、という行為を崇拝行為だと見なすような教えは、イスラームにはないのです。
人が健全な心を持っているのであれば、どういう目的であれ悪い言葉が口に出されることによってその魂に傷をつけます。信仰している心は、どこから悪が来ようと、悪い感情や態度がそのような楽器でかき鳴らされようと、それらを苦痛に感じ、それらに対して閉じられた状態でいます。クルアーンが言及している徳のなかで、預言者ムハンマドはそのように振舞われていました。アブー・ジャーヒルが死んだ時、ある伝承によれば預言者ムハンマドはただ「このウンマのファラオが死んだ。」とだけ語られました。しかしマッカ征服の少し後でムスリムとなったアブー・ジャーヒルの息子イクリマがいるある礼拝所で、アブー・ジャーヒルに対して批判的な言葉が語られていた時には、「その父を非難し、彼について悪いことを語ることによってその子供達を苦しめてはいけない。」と命じられたのでした。
預言者ムハンマドはこの宣言で、信者達に対し不必要な言葉を発することを注意し、同時に、父が非難されることによって息子達の本来の性質を喚起することのないようにと教友達に警告しているのです。
預言者ムハンマドの許しの例の一つが、アブドゥラー・ビン・ウバイに対し見せられた態度と振る舞いでしょう。ご存知のように、彼は偽信者であり、さらには偽信者達の長でした。中傷事件のような多くの騒乱に彼の影響が見られます。しかし、その息子アブドゥラーは素晴らしい信者でした。ある時この清らかな息子が預言者ムハンマドのもとを訪れ、「アッラーの使徒よ。私の耳に入った限りでは、あなたは私の父を殺害させようとなさっているとのことでした。アッラーに誓って言いますが、ハズラジュ族の中で私ほど父を尊敬している者はいません。もしその決定を下されたのであれば、私にそれを命じてください。私が殺しましょう。なぜなら誰か他の者が父を殺せば、父を殺した相手が人々と共にいるのを見た私の自我は私を放っておいてはくれないだろう、と私は恐れているのです。私の自我は彼を殺そうとして私とやりあうでしょう。そして私はひとりの信者を不信心者の為に殺すことになり、地獄にふさわしい者となってしまうでしょう!」と訴えました。預言者ムハンマドは彼に、「いや、私達はあなたの父に慈しみを持って接する。私達と共にいる限り、彼にも良く振舞うだろう。」と答えました。そして預言者ムハンマドは、アブドゥラー・ビン・ウバイが偽信者であることを知りつつも、彼の葬儀にも参加しました。息子アブドゥラーの懇願により、その墓で彼の為に免罪を求めて祈ろうとした時、
「多神教徒のために、御赦しを求めて祈ることは、仮令近親であっても、かれらが業火の住人であることが明らかになった後は、預言者にとり、また信仰する者にとり妥当ではない。」(悔悟章第113節)
というクルアーンの節が下されました。それ以降は預言者ムハンマドは多神教徒や偽信者の葬儀の礼拝を行なわず、彼らの為に赦しを求めて祈ることもありませんでした。一方でその日、身につけていた清潔なシャツを脱いでアブドゥラー・ビン・ウバイの息子に与え、「これをあなたの父の埋葬用の布として使いなさい。」と言われたのでした。
アッラーの敵を許すことはできない
アッラーの使徒のこの振る舞いには、もう一つのポイントがあります。アッラーは
「寛容を守り、道理にかなったことを勧め、無知の者から遠ざかれ。」(高壁章第199節)
のような言葉で、許すことを命じておられるのです。従って、信者は、欠点を大げさに言い立てたりしてはいけないのです。出来る限り互いの欠点を覆い、許すことのできない罪をも大目に見なければいけないのです。しかし、信者は、アッラーに関することにおいては、宗教や信者に敵対する人達について「私は全てを許します。アッラーよ、あなたもお赦しください。」ということは決してできません。生涯を通してアッラーを否定し、宗教を侮辱し、人々の誉れである預言者ムハンマドについて、口に出せないようなひどい言葉を吐き、クルアーンへの中傷をも行なった人の為に赦しを乞うことは、誰にも許されていないことなのです。そのような望みはまずアッラーに対する不敬です。こういう場合信者はただ、「私はそれ以外の権利についてはその権利の主に委ねます。私が彼に持っている権利は帳消しにします。」と言うことができるのです。事実、預言者ムハンマドもアブドゥラー・ビン・ウバイに対し、ご自身が持っている権利を帳消しにされましたが、彼の為に免罪を求めることはなかったのです。
許すことは、アッラーの使徒の徳です。そのお方は生涯を通してこの徳をあるべき形で示し続けられました。マッカでご自身を苦しめた人々、バドルやウフド、ハンダクの戦いで信者達を攻撃し、彼らを壊滅させようとした人々すらも、後に彼らが入信すると、お許しになられたのです。クルアーンは預言者ムハンマドのこの美しい性質について
「あなたがかれらを優しくしたのは、アッラーの御恵みであった。あなたがもしも薄情で心が荒々しかったならば、かれらはあなたの周囲から離れ去ったであろう。だからかれら(の過失)を許し、かれらのために(アッラーの)御赦しを請いなさい。そして諸事にわたり、かれらと相談しなさい。いったん決ったならば、アッラーを信頼しなさい。本当にアッラーは信頼する者を愛でられる。」(イムラーン家章第159節)と語っているのです。
そう、アッラーの使徒は、許しという軌道上にその人生を送ったのです。美しい徳を持つこと、人の過ちを見ないこと、過失を許すこと、そして人を許すことは時には非常に困難です。誰かがあなたの背後に寄って来て背中をけり、それからそれでは足りないとばかりにあなたのおなかを殴ったとします。しかし彼はあなたが仕返しをしないことに気がつきます。そして今度はあなたの顔を殴ります。これらの攻撃全てに対し法や行政は仕返しを許している状態で、人が許すこと、寛容であることを選択するということは、しもべが自らを忘れ、我執を放棄し、あらゆる邪な考えから心を清めていることによってのみ、可能となるのです。
ベルフを忘れなければいけない!
伝承によれば、イブラーヒム・アトゥハム師は、ベルフ(セルジューク・トルコの都市、現アフガニスタン領)で、即位の順を待っている王子であった時、その地位、王位、そして現世の仕事を放棄し、真実の道を行く人々に従事することになったのです。ある日彼の師は彼を試みる為に、一人の門弟に任務を与えます。彼は足に嵌めた突起のようなものでイブラーヒムの足を何度も蹴ります。足から血を流しながら彼は、私達にとって非常に完成されたものである、次のような言葉を語るのです。「親友よ、私達は我欲の争いをベルフに置いてきたはずだ。あなたは無駄に挑発しているのだよ。」
この言葉は、試験の為に使わされていた門弟にとっても、素晴らしいと感じられるものでした。相手の悪い行いを良い行いによって追い払うこの態度を評価したのです。後にその師のもとに戻り、あったことを報告します。師はそれらを聞いた後、こう言うのです。「彼はまだ、ベルフが忘れられないということだ。」
そう、許しの道は時には自らを忘れることを必要とするのです。自らを忘れる人は、とても大きなことを思い出すことができます。常に我欲と向き合い、いつでもそれを優先させる人は、とても大きなことを忘れてしまうのです。自分の我執やグループのエゴに対しよろい戸を下している人は、イスラーム世界全て、さらには全ての人類に開かれた広い窓のカーテンをあげ、被造物全体への愛情や愛着を感じることのできる通路にいるのです。
つまり、完成された信者は、その心に慈しみの居場所を持たない、敵意を抱き続ける人々と同じであってはいけないのです。アッラーの徳を自らの徳とし、アッラーの行なわれることを自らの原則としなければならないのです。アッラーが、ヘビやムカデ、ライオンやトラ、信者や多神教徒と区別することなく全ての存在に糧を与えられるように、彼らも創造主ゆえに皆に対し全てに対し、一種の愛着を感じなければならないのです。人に恥をかかせたりすることのないよう、最大限の努力を行なうべきです。他者の最大の過ちに対してすら寛容をもって接するべきです。彼らが許しを乞うのを待つことなく、彼らが罪を犯してしまったという心理状態に入る機会を与えることもなく、可能であれば彼らが陥っている悪事について、彼らのその状態への正当な理由を見出すべきです。相手の過ちを直接指摘して彼に恥をかかせたり、罪を犯したという精神状態に追い込み、結果、自分を守ろうとするような態度に彼らを追い詰めてはいけません。自分の態度や振る舞いが、いくつかの誤った考えをもたらしたのかも知れないと考えるべきであり、それを告げて相手を楽にしなければならないのです。そしてあらゆる手を尽くして、彼らを怒りや憎悪、敵意、陰口、中傷といったシャイターンの罠から、そしてそういう罪を犯すことによって来世を失う不幸から守る必要があるのです。