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神、そして他者に対する「肯定的解釈」


人は思考世界によって形成される存在です。その人がどのように考えているのであれ、その能力にも応じて、そのようになるのです。人は一定の思考のアングルから物事や出来事を見ている限り、性格や精神的なあり方という点で徐々にその思考に応じた個性を得ていきます。「物事をよく見る人はいい方向で考える」いい方向で考える人はその精神でもよいことへの種を成長させます。そしてその心で形成した天国のうちに生きるのです。周囲を自分自身の暗い世界から眺める人は、あらゆるものにその内面の醜さを伝染させ、したがって皆に対し不平をいう者となり、決して善を見出すことはなく、よい方向で考えることはなく、人生の真の喜びを感じることもできません。

 次のようにいうこともできるでしょう。要因の範疇において、土壌で成長する種にとって土、空気、水、そしてそれらを構成する要素が与える影響がどのようなものであれ、人のよい徳や性格の発展にとっての思考や意志のもたらす影響は同じものです。花は種から、鳥は卵から出てくるように、崇高な精神やしっかりした性格も、よい思考や清らかな意志から生まれます。さらに言えば、清らかな考え、純粋な意志のおかげでいつでも天国の空気を吸っているかのように生き、そういった人々は次第に周囲の人々にも同じ空気を広げます。周囲を、そして人々の心を天国の庭園とするのです。醜い考え、悪い意志を持つ人は、天国の空気の中にいたとしても、人々に血や膿を飲ませるのです。

肯定的解釈はイバーダである

 いつでも快い思いで満たされ、人に対し肯定的な見方をする人を肯定的解釈をする人と言います。よい意志、肯定的な考え、肯定的解釈といった意味になるこの肯定的解釈は人の心の清らかさ、善を好む性質を示すものです。人々、そして出来事について判断する際、できる限りいいよい意志をもって振る舞うこと、出来事を良い方向で解釈することは、誠実な信者のあり方です。

 誰かについて悪い考えを持つことは「邪推」です。アッラーはクルアーンの言葉で、悪意の解釈の醜さを「信仰する者よ、邪推の多くを祓え。本当に邪推は、時には罪である。無用の詮索をしたりまた互いに陰口してはならない。」(部屋章第12節)と伝えておられます。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)も「邪推をさけなさい。なぜなら邪推は言葉のうち最も偽りであるものだからである。詮索をしてはいけない、互いの秘め事を探ってはいけない。他者の言葉に耳をそばだててはいけない。互いをライバルと見なしてはいけない。互いをねたんではいけない。互いに憎しみ合い、背を向けあってはいけない。アッラーのしもべたちよ!兄弟でありなさい」と仰せられました。詮索、邪推、そして友情を傷つけるあらゆる振る舞いから遠ざからなければいけないと警告されました。さらに「肯定的解釈をするのは、その人のしもべとしてのあり方の素晴らしさからもたらされる」と仰せられました。純粋な意志、肯定的な考え、肯定的解釈を持つことを、イスラームを受け入れ、それによって深みを増し、アッラーによって見られているという意識をもって生きることの深遠さの一つのしるしとされました。アッラーの使徒は教友たちの忠誠を受け入れる際、すべての信者に対し肯定的解釈をすることについても彼らに約束させておられました。

 あるイスラーム学者は、四つの大きな病を取り上げられる際、失望、傲慢、うぬぼれと共に邪推をもその一つとされています。そして人が肯定的解釈をしなければいけないことを示しています。そう人は、皆を自分より優れていると見なすべきです。我欲における弱さ、あるいは醜さを邪推によって他者に転移させたり、物事の実際をよく知らないために他人の状況や態度を非難するといった過ちに陥ってはいけないのです。したがって預言者様の、私たちがその意味を知らないいくつかの状況についてそれを気に入らないこともまた邪推です。そして邪推は、集団の精神的・物質的声明を傷つけるシャイターンの罠なのです。

私の目が嘘を語る

 そう、私たちは肯定的解釈をしなければなりません。特に人々についていつでもいい方向に考えるべきです。預言者様の道について書かれた注釈本の一つ「ベリカ」の著者であるイマーム・ハーディミーは「信者が姦淫を行っているところを目撃したとしてもすぐにそのことについて判断してはいけない。まず目をこすり『なんてことだ、この人はこのような醜いことはしない。私が見間違えたのだろうか』と言いなさい。戻って再び『本当にあの人か?』と確認しなさい。その人であれば『それでももしかしたら見間違えたのかもしれない』と言いなさい。何度も何度も目をこすって見なさい。もしその悪い行いをしているのがあなたの思ったとおりの人であるという判断が確定できたのであれば、『アッラー以外に何の権力も力もない』と言いなさい。『アッラーよ!彼をこの醜い状態から救ってください。私をこのような罪に陥れないでください』とドゥアーし、そこを去りなさい。」と言っています。

しかし、最初に見た時には、人の中にまだ疑いの余地があります。そしてこの疑いの余地は、この人についての判断がより肯定的なものとなることを助けるのです。確信を持てば、確定的な判断を下すしかほかに道がなくなります。したがって人はその目に醜いものが飛び込んできた時には、詮索したりそれをはっきりさせようとするのではなく、その醜い光景が心に流れ込み、溶け、一つの型に流し込まれる前にすぐに背を向け、そこから遠ざかるべきなのです。「アッラーよ、罪を犯したしもべをお許しください。私をもお許しください」と言い、見たことを忘れるべきなのです。

 その罪を犯してしまった人は、一度倒れたとしてもすぐに起き上って悔悟し、その罪を涙で洗い流し、許されたかもしれないのです。しかし彼を目撃し、確認することによってその問題を深くしてしまった人は、その出来事を思い起こすごとにその醜い行為を思い、思考がけがされるということから救われることができません。そして邪推の破壊力から逃れられないのです。

 さらに、社会の秩序や安定の保障という点から、法的な平等には一定の重要性や存在意義があったとしても、イスラームにおいては人の恥を暴くといった務めはないのです。美徳のルールの中には、他者の欠点を探り、詮索し、恥じ入らせるといった項目はありません。逆に過ちや欠点を探り、罪を暴露し、人々を侮辱することはイスラームにおいて不道徳なこととされているのです。

 だから、一人の人に10の偽信者のしるし、1の信仰のしるしがあったとすれば、私たちはやはりその人についてできる限りよい解釈をする必要があるのです。そう、その人は、その状況ゆえに自分の先行きを恐れ、不安を感じるべきです。しかし私たちはその人について偽信者であるという判断を下すことは絶対にできません。邪推をしてそれを的中させるよりは、肯定的解釈をして外す方を選ぶべきです。当然、信仰のための奉仕や全体の権利を考慮し、偽信者の兆候のある人に仕事を委ねるかどうかという点では注意深くあるべきでしょう。このようにして全体の権利を守り、その人々を醜い性質から救い、誠実なムスリムとなるための「肯定的解釈」が要するところを行うことができます。ただ、同じ目標を持つ人々の間では肯定的解釈と信頼が基本的要素であること、確定的な知識に基づかない情報やはっきりしない疑惑などから兄弟たちが互いに不信感を抱くようなことがあってはならないことを決して忘れてはいけません。

非難を受けるようなことを避ける

 さらに、いつでも肯定的解釈をすることが原則であると同様、他の人々に邪推をさせるような行動を避けることもとても重要な基本です。一部の人々は、醜い考えの要因となるような状態や行動を十分に避けていません。飲み食い、寝起き、仕事、利益、人間関係などの観点から、批判され得るような振る舞いを示しています。したがって邪推をするような性質の人々に悪い感情や醜い考えを引き起こすのです。いつでも肯定的解釈に結びついて生きることが必要である一方で、それぞれが自分の状況を点検し、邪推させるような状態を遠ざけることも必要なのです。

 そう、非難を受けるような事柄を、特に今日において承認することは絶対に不可能です。なぜなら今日では、個人よりも全体的な存在としてのあり方が関わってくるからです。ムスリムそれぞれの態度が全てのムスリムのものとして帰されることがあり得るのです。だから私が大変重要視しているドゥアーに「アッラーよ。私たちの振る舞い、態度のせいで私たちの兄弟をうつむかせてしまうことがありませんように。私たちの個人的な過ちのせいで彼らを恥じ入らせることがありませんように」という願いがあります。なぜなら現代では、個人の醜い振る舞いが全ムスリムの信用を失わせ得るからです。不適切な態度を示す人は、全ムスリムに邪推を受けさせ得るのです。

 この観点から、「あなた方は邪推させるようなことになる場から遠ざかりなさい。非難されるようなことをすることを避けなさい」というハディースにしたがって行動することは、以前に比べてより深刻な重要性を持っています。そう、非難を受けるような行為が生じ得る場所、そういったものに導く感情を生じさせ得る状態、そしてひとかけらの食べ物、一つの言葉、何かを聞くこと、詮索することによって人をその本髄から切り離してしまうような不安定な場所から遠ざかることが必要であるように、邪推を引き起こす下劣な振る舞いを避け、悪い考えを起こさせることのないようにしなければいけません。次の例はこの項目において私たちへの道しるべとなるはずです。

 ある時サーフィア(アッラーがお喜びくださいますように)が預言者さまを訪問され、しばらくそこに滞在した後、家に戻るために許しを求めました。礼儀正しい預言者さまはその妻であるお方を見送るため、彼女と共に外に出られました。その時、二三人の教友がそばを通り、彼らを見、しかしまったく止まることなくそのまま遠ざかろうとしていました。預言者さまはすぐに彼らを呼び止められ、サーフィアさまの覆いを開け、「見なさい、これは私の妻サーフィアです」と言われました。それに対し教友たちは大きな恥じらいを感じながら「アッラーの使徒よ!あなたについてどうして悪いことを考えるようなことがありましょうか」と答えました。預言者さまは次のように答えられました。「シャイターンは人の動脈をいつでも動き回っているのです」

 そう、シャイターンは人間とこれほど近いのであり、人の心に多くの疑念、疑惑を投げかけることができます。最もまともな人々を、ありえもしない邪推へと追いやることができます。だから人はいつでも肯定的解釈をするよう努め、また邪推を引き起こすような状態から十分に遠ざかり、常に注意深く生きなければいけないのです。

崇高なる神についてのよい解釈

 また一方で、人々についていつでも肯定的解釈をするべき信者は、崇高なる創造主の御業に対する邪推を意味する、不満という状態に陥っては絶対にいけません。信者は何よりも、誰よりもまず崇高なる神について肯定的解釈をする必要があります。「私としもべとの関係性、そして私の態度は、しもべの私についての考えに結び付けられている」というハディースで、アッラーへよい解釈をすることの重要性とそれがどれほど大きな救いの要因となるかが示されています。

 慈悲深い主についてのよい考えが来世においてどのように許しの宣言と変わるかは、あるハディースで次のように説かれています。行為が収められた箱に、善行と共に多くの罪が入っているしもべが、審判を受けます。はかりで、善行の方の皿が軽くなり、罰を受ける者であるという判断が下されます。罰を受けることになったしもべはとても動揺し、引きずられるようにして罰の場へと連れていかれるさい、何度も後ろを振り向きます。そして何かのサプライズを待っているかのように周囲を見回します。アッラーは天使たちに「あのしもべに尋ねなさい。なぜ振り向いてばかりいるのか」と言われます。しのしもべは答えて言います。「主よ!私はあなたについてこんな風には考えていませんでした。確かに残念ながら私は、みんなが善行と共にここにきているのに、罪と共に来てしまいました。でもあなたの慈悲に対する信仰、信頼は決して失ったことがありません。私の希望は、あなたが私に対しても慈悲をもってふるまってくださり、私を許されることでした」この考え方とアッラーへのいい見方は、この人に救いの扉を開きました。結果として彼は「わがしもべを天国に連れていきなさい」という吉報を聞いたのです。

 同様に、アブー・サフル師が来世へと移っていった後で人々は彼が言葉で表現できないような恵みの中にいるところを夢に見て、尋ねました。「師よ、この高位をどのように手にされたのですが」アブー・サフル師は答えて言われました。「私の主に対して抱いていた肯定的解釈のおかげです」

 そもそも信者は人生のあらゆる瞬間で、アッラーについて肯定的解釈を持っているべきであり、常にその希望をもって生きるべきです。「私は罪人かもしれない。アッラーと綿の糸でつながっているだけだから、いつちぎれてしまうかもわからない。しかしアッラーは許されるお方、慈悲深いお方だ。許しの大海に私をも入れてくださるだろうと完全に信じている」と言い、許されるという希望を抱くべきです。ただしこの肯定的解釈と希望は、人に新たな罪を犯させるものとなってはいけません。純粋な信者は、罪から、へびやムカデから逃げるように逃げるべきです。意図せずに悪事を働いてしまった場合にはすぐに悔悟に走り、許しを請うべきです。この問題には非常に微妙なバランスが含まれています。罪から遠ざかることと、意図せず罪を犯してしまった後絶望しないことの間には一つの小さな点が存在します。なぜなら絶望は罪よりももっと大きな危険であるからです。「もう終わりだ」ということ、自暴自棄になること、反抗という沼に転げ落ちること、そしてついに自分を殺してしまうほどの闇に陥ることは、こういった状態へ道を開く罪よりもずっと悪いものです。しかし人は、どのような状況にあったとしても、「クルアーンでご自身を慈悲深く慈愛あまねくお方という名前で示しておられるお方、生涯を無駄に過ごした人々に呼び掛けられる際にも「わがしもべたちよ」と言われた主がおられるのになぜ絶望しようか。そもそもこのような慈悲深い主に対し罪を犯すことはとても醜い。だから今後はどうして反抗などしようか」と言えるべきなのです。そう、人は自分を放棄してもいけないし、絶望してもいけないのです。特に年老いた時、あるいは死の瞬間にはこの希望をより強くするべきです。そしてアッラーへと進む際、アッラーについて素晴らしい思いで満たされているべきです。実際預言者さまも「あなた方のうち誰でも、アッラーに対し肯定的解釈を持っていない状態で死ぬことがないように」とおっしゃられました。

 さらに、「しもべが私のことをどのように思っているのであれ、私も彼にそのように振る舞おう」というハディースを狭い範囲でとらえないこと、それをより普遍的に受け止めることが必要です。そう、「私に様々な恵みで喜びを与えてくださり、正しい道に導いてくださり、過ちを赦してくださり、罪を赦してくださる主が、私にはいるのです」と言えることは、肯定的解釈のしるしです。しかしまた、私たちの人生で定められているあらゆる事柄で私たちの幸せが基本とされていること、すべてが側面のように私たちの上になされていると信じることは、主に対する肯定的解釈の完成はこれに基づくものと言えます。神が望まれれば私たちを流罪にされ、あなたに他の試練を与えられ、また他者を監獄に入れられます。しかし何をなさろうと、神のあらゆるみわざの結果には私たちの益があります。常に私たちをある場所へ呼び寄せようと、呼び寄せて永遠の幸福に至らせようとされます。礼拝、断食、巡礼そしてザカートといった様々なイバーダから、禍や災難まで、私たちに課せられるすべてのことは私たちのために計画されたのです。そう、この真実を心から信じることは、崇高なる主への肯定的解釈の頂点に達することです。

 要するに、よい意志、肯定的な考え、よい見方は、人の心の清らかさ、良心の豊かさのしるしです。人は一度他者を尋問し始めると、被告席にあらゆる人を座らせるようになります。最初から肯定的解釈を行わなければ、皆を、そしてすべてを非難することに物怖じしなくなるでしょう。したがって人はそれぞれが自分の我欲を点検し(絶望に陥らないことを条件として)自らを叱咤しなければいけません。しかし他の人々については肯定的解釈を行うのです。忘れてはいけないことは、邪推をしてそれを的中させるよりは、肯定的解釈をして判断を外してしまう方がよりよいということなのです。


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