クルアーンでは科学的な事実について全て書かれているのでしょうか?

 

 

 

私達は今日、物や出来事、宗教的なものを見るとき、科学と科学的な事実の多くの分野を眼鏡のように用いています。時々私達は科学的事実をひとつずつ、時には論文などに多くの事実を使います。このようにして、私達は創造者の存在または唯一性の証拠を求め、これの証拠を必要とする人たちへ提供しようとしています。

同様に、クルアーンを考慮に入れて科学を見るとき、私達はクルアーンがものの性質についての情報を含んでいることを指摘します。それは人間の科学的な追求から出た調査結果と矛盾していません。薬を例にすると、確かに多くのことが私達が創造者を信じるように導いていることがわかるでしょう。私はかつて「薬が信仰の適所である」という本を読み、それは本当にそうであると実感しました。私達の身体の存在と開発を研究するとき、神に感謝せざるを得ないのです。

例えば、クルアーンの中の胎児についての記述は私達が今日知っていることと全く同じです。同様に、クルアーンはこのことについて近代的な科学から批判をもたらす一つの要素さえ含んでいません。無知な迷信が普及していた千年以上も前に、無学な男(預言者)が、集中的な科学研究の上、何世紀も後にレントゲンと他の精巧な装置によって発見されたこのような事実をどのように知ることができたでしょうか。このように、クルアーンである特定の科学的な事実が正しく記述されていることを指摘するとき、これらすべてのことはクルアーンの啓示の時に人間に知られていたはずがないと論じることができます。従ってクルアーンは天に起源がある本と言えます。このことはモハメド(彼の上に平和と神の祝福あれ)が真の預言者であるということを確証します。

クルアーンの奇跡的な性質についてと、科学的な事実について何を含んでいるかについては、他で論じているので、さらにそれには触れないこととします。

しかしながら私達はなぜ、イスラーム教を説明するとき、科学と科学的事実を使うのでしょうか。その理由は、決して科学的な事実以外に何も受け入れまいと決心している人々がいるからです。物質主義者と反宗教的な人々は宗教を拒絶する手段として科学を利用し、そして自分達の考え方を広めるために科学威信を使おうと努めました。

この手段によって、彼らは数多くの人々の知性をゆがめ堕落させました。従って、私達は同じ手段である科学と技術を使って、それらはイスラーム教と矛盾していないことを示さなければなりません。言い換えれば、自分自身の方法でものを評価し、それで正しい道からそれて行ったマルクス、エンゲルス、レーニンと他の物質主義者とは反対にものを評価し、人々を正しい道に導かなければなりません。

私は個人的にこのような議論には賛成です。逆に、私は信者が物質論と無神論に対して抵抗するためにこのような事実で精通するべきであると考えます。なぜなら、クルアーンの節は私達に熟考し、勉強するようしきりに促し、星と銀河を観察するように指示し、私達に創造者の偉大さを印象づけます。クルアーンは同じく、私達に人間の間でさまよい、身体の器官の奇跡と身体の創造に注意を向けさせるようにと勧告しています。原子の世界から最も大きい生物まで、また、人間が地球上に最初に現れてから離れるまで、クルアーンの節は私達の目の前に創造全体を教えてくれます。たくさんの事実に触れた上で、クルアーンは私達に、「アッラーのしもべの中で知識のある者だけがかれを畏れる。(ファーティル・創造者)35-28」と言い、それで私達にイリム(知識)を求め、それを研究し、熟考するように励ましています。しかしながら、それらすべての研究と熟考が常にクルアーンの精神に従わなくてはならないということは、最初の条件として念頭に留めておかなければなりません。そうしなければ、クルアーンの忠告と命令に従っていると主張する間に、私達はクルアーンから離れていってしまうでしょう。

科学とそれが示す事実は、イスラームを詳述するために使用することが可能であり、そのため使われるべきです。しかし、もし私達がそれらを自分の知識を引き立たせるためや、権力を振るうために使うなら、私達の言うことが正しくても、聞き手に影響を与えることはありません。言葉や議論自身が輝かしくて説得力があっても、私達の心にそのような意志があれば、効果がなくなってしまうでしょう。それらは聞き手の鼓膜までたどり着きますが、それ以上奥へは行きません。同様に、もし人々を説得する代わりに、私達の議論によって人々を黙らせることを目的とするなら、それは理解することへの聞き手の道をふさいで、さらに私達の目的を達成し損ねるでしょう。

逆に、もし私達が、信じるためにこのような議論を必要とする人たちに完全で適切な誠実さで接するならば、たとえ私達自身が気付かなくとも、彼らは自分の必要としていることを汲み取り、彼らのため役に立たせるでしょう。時々このような接し方で議論した後に、それが効果的でなかったと感じるときがあります。しかし、実際に雄弁で自由に話したときよりも聞き手にとってははるかに益をもたらすことがあるのです。科学と科学的事実を紹介するとき、私達の主な目的は神の喜びを勝ち取ることであって、聞き手のレベルに従いそれらを提出することです。

科学をところどころ宗教より「優れている」と見なすこと、宗教を正当化したり、近代的な科学的事実を使って宗教の信頼性を強めるため、イスラームの論点を紹介することは正しくありません。なぜならそれは私達自身がイスラーム教の真実について疑いを持っている、または、私達が科学を「必要としている」ということを意味してしまうからです。同じく間違っているのは、科学と科学的事実は完全であると認めること、また、それをクルアーンの信頼性や超人間的な起源として認める基準とすること、そしてこれらをクルアーン確証のために使うことです。これは単に不合理なだけではありません。それは忌まわしく、決して認められないし、大目に見ることもできません。このような科学的議論とほのめかしはせいぜい二次的なことで、道の存在を分からない特定の人々のためドアを開くという点で、サポートするかもしれません。

科学はですから、眠っているか、心が動かないままでいる人々の心を目覚めさせるためや感動させるための道具として使われるでしょう。私達は科学を、良心の中に隠されている真実を知りたい願望のほこりを掃除するほうきと考えればいいかもしれません。それと対照して、もし科学が絶対的という見方をすると、クルアーンとハディース(預言者の教え)を科学に合わせようと努め、クルアーンとハディースの内容が科学と意見が違った場合に私達は疑いを持ち、堕落してしまうでしょう。

私達の立場は明確でなくてはなりません、それは「クルアーンとハディースが正しくて、絶対である」ということです。科学と科学的な事実はクルアーンやハディースと一致しているところに限り真実であって、異なっていたり内容と離れている場合には偽りです。確立された科学的事実でさえイーマン(信仰)の真実を保護するための柱になることはできません。それらはただ私達に考えを与え、考慮する引き金となるための道具として受け入れられます。神だけが私達の良心の中でイーマンの真実を確立する存在です。これが科学を通して可能であると期待するのは大きな間違いです。「イーマン(信仰)は神の導きによってのみ訪れます。」このポイントをつかみ損ねる者は誰でも、取り返しのつかない難しい間違いを起こしている事になります。なぜなら宇宙から証拠を探し集めて神の名前でそれを雄弁に話そうと試みるとき、気が付かないうちに彼自身が自然の召使となり、それを礼拝する者なってしまうからです。彼は勉強し、花や自然の青々しさと春について話すでしょうが、イーマン(信仰) のつぼみ、あるいは小さな若葉さえも良心の中に芽生えることはないでしょう。彼の一生涯において、自分の意識の中でまったく神の存在を感じないかもしれません。見た目では彼は自然を崇拝しているようには見えませんが、実際にそれは彼が生涯を通じてしていることです。

頭の中にあるたくさんの知識ではなく、心の中にあるイーマンにより、人はムーミン(信仰者)になることができます。ひとは神の存在を理解するのに客観的、主観的証拠を使って出来るだけたくさんのことを得た後、もし精神的な進歩(タラッキー)を成し遂げたいなら、自分自身からそのような証拠の特質への依存を捨てなくてはなりません。彼がその依存を捨て、クルアーンの光と指導の下で良心に従って道を歩み始めると、神が望む限り自分が探している悟りを見つけるかもしれません。ドイツの哲学者、カントはこう言いました:「私は神を信じるために読んだすべての本を後にする必要を感じました。」

もちろん、宇宙の雄大さ、人間の本当の性質、これらについて解説する本は適切な重要性を持っています。しかし、人はそれらの本を利用した後、それを手放して、イーマン(信仰)を持ちながら人生を続けるべきです。私達がここで言っていることは、信仰と良心のことを深く経験しなかった人たちには抽象的に思われるかもしれません。しかし、夜を祈祷(きとう)で明るくし、主を熱望することを通じて、翼を獲得する人々の魂はそれを理解するでしょう。