イスラームの生き方
困難に直面したら・・・
生きていく上で私たちは大小の困難を経験します。どの年代にも、どのような立場にある人にも、それぞれの苦労があり、乗り越えなければいけない困難があります。多くの人が共通して味わう苦労もあれば、「なぜ自分だけが」と思える苦労もあります。人に話を聞いてもらって楽になることもあれば、正論をアドバイスされても「きれいごと」にしか感じられず、ますます自分の殻にこもってしまうこともあります。
健康問題に関する問題、経済的な問題、夫婦間の問題、その他の人間関係の問題、子育てに関する問題、どれも人にとって大きな試練です。「どうして私がこんな目に」と感じたり、「なぜあの人は私にあんなことを」と怒りに震えたり、絶望を感じたり、難しい選択を迫られて日夜悩み続けたりします。
こういう時、問題そのものの解決にはならなくても、物事の受け止め方を変えることでその困難を乗り越えていくことができることがあります。あるいは、乗り越える必要すらなく、その苦しみを抱えたままでうまく折り合いをつけて生きていく道が見つかることがあります。
例えば、この文章の筆者である私には、生まれた時から病弱でかつ障害を持つ子供がいます。子供の病気というのは親にとって大きな困難であり、また子供の障害はさらなる試練のように感じています。子供の度重なる入院、手術、そして障害と向き合うことは筆者にとっても大きな困難の連続です。こういった日々の中で、時には周りの人の励ましやアドバイスがきれいごとにしか聞こえないこともあります。それでも、心に残り、私の支えとなってくれたいくつもの言葉や考え方があるのです。
「どうしてこんな目に遭わなければいけないのか」という気持ち
→このように考えていくと、誰かのせいにしたり、あるいは自分を責めたりといった方向に進んでしまいがちです。しかしすでに起こってしまったことについて「どうして」と問い続けることは人を苦しめ続けるだけなのです。「これにも何か意味があるのかもしれない」「私にはこの試練が必要だったのかもしれない」と無理にでも思い、そこから「例えばこういう意味があったのかもしれない」と考えを進めていくことによって視野が広がることがあります。例えば筆者の場合、子供の付きそいで入院生活を共に送ること、多くの病気の子供たちを目にすることにより、健康であること、病気でないこと、それ自体がいかに尊く、貴重なことであるか以前よりもはるかによく理解できるようになり、そのことをありがたく思えるようになりました。
また同時に信仰を持つ人間として、試練に直面した際に自分が信仰を持っていることの意義を実感することがあります。幸せな中で感謝の祈りを捧げている時にはなかった必死さ、一途さ、ひたむきさで、救いを求める祈りを捧げる自分を感じることもあります。
「なぜ私は悪くないのにこんな目に」「あの人が悪いのになぜ私が」という気持ち
→人に対する怒りは、自分をも傷つけます。「過去も他人も変えられない、変えられるのは未来と自分だけである」という意味の格言・名言は多くあります。
信仰を持つ人間として、しばしばアドバイスされる考え方があります。誰かの言動、態度に怒りを感じた時、その背後の存在に思いをはせることです。これは「この人たちのこの発言の背後には黒幕がいる」といった次元のことではありません。「神は、この人を通して私がこの言葉を聞くことを求められた」「神は、この人を用いて、私にこのメッセージを伝えられた」「私には今、この人にこういう態度をとられる必要があった、神がそれを求められていた」という考え方です。「私とあの人」ではどうにも消化できない事柄も、その背後を考えることで乗り越えられることがあります。「船の上で、自分の荷物は自分で守る、と荷物を抱え込むことはない。あなたの荷物も、あなた自身をも、船が運んでいる」という説話があります。運命に翻弄されているのではなく、アッラーという船が自分を運んでくれている、と考えることは人を精神的に楽にしてくれます。
「目に見える試練」と「目に見えない試練」
イスラームの考え方として、この世は試練の場であるというものがあります。試練というと前述のような困難な出来事を指すと思われがちかもしれません。しかし実際にはそうではありません。試練は「忍耐の為の試練」と「感謝の為の試練」がある、という表現もされます。すなわち、困難に直面することが忍耐の為の試練であり、逆によいことがあること、恵みが与えられること、あるいは困難に直面していないことそのものも、「感謝の為の試練」なのです。つまり、病気でなく健康であることに感謝できるかどうか、あるいは健康であることをどのように活用したか、経済的に恵まれているのであればそのことに十分感謝をしたか、その財産をどのようなところに用いたか、という点で試練を受けます。往々にしてこの試練は試練であると気づかれず、またしばしば人は与えられた恵みに感謝することを忘れています。
しかし忍耐の為の試練の場合、その人が試練を受けていることは本人にも、周りにも明らかとなります。困難に直面した人が「今自分は、忍耐でいるかどうかの試練にある」と感じ、不平を言わず忍耐すれば、その試練を乗り越えたことになるのです。忍耐することはもちろん容易なことではないことが多いです。しかし試練を受けていることが周りにも明らかであることから、周りの人々が心配してくれたり、祈ってくれたり、助けてくれることがあります。思わぬ人の優しさに触れたり、温かさを感じたりすることがあるのです。
「忍耐」のコツ
困難な時期に教えてもらった言葉の一つに、「忍耐を分散させない」というものがありました。「過去の苦しみを思い出してさらに苦しんだり、未来を思い悩んでさらに苦しんだりしていては、今この瞬間の為の忍耐力が足りなくなって当然。過去の苦しみは今は実際ないのであり、未来の苦しみは、そもそもやってくるかどうかもわからない。今、に忍耐力を集中すれば、人の忍耐は困難に対して十分であるはず」というものです。
「将来を悲観して」の自殺、無理心中や子殺しが多く発生している日本ではまさに重要なことであると思われます。人は一瞬の後にわが身に起こることすら知り得ない存在であり、5年先、10年先のことを楽しく想像することはともかく、悲観して耐えられなくなってしまうのは悲しすぎることです。
だから過去や未来を思いわずらわず、今、に集中することは一つの重要な困難の乗り切り方なのです。
「災いに思えたけれど…」
誰しも人生にいくつか、「その時は最悪の出来事だと思ったけど、今思えば本当にあれでよかった」「あの時は泣いて暮らしたけど、今思えばあれが人生の転機となった」というような出来事を持っています。もっと単純に、「電車に乗り遅れて悔しかったけど、次の電車で誰々さんに久しぶりに会えて嬉しかった」というような経験はさらに数多くあると思います。人は未来のことを知り得ない為、自分なりの判断でそれがよいこともしくは悪いことと受け取ります。そしてその判断は必ずしも正しいとは限らないのです。
同時にこの結果は目に見える形で現れない場合もあります。誰かが破産して、そのまま苦労のうちに人生を終えたとしたら、この破産は単に災いでしかないように見えるかもしれません。しかしイスラームでは来世という考え方があります。もしこの時破産していなければ、その後この人もしくはその家族は道を誤って、もっと大切なものを失っていたかもしれない、この時の破産によって現世では富を享受する暮らしはできなくなったかもしれないけれど、来世は守られた、という考え方です。もちろん、この考えに心から至るには、もしかしたら時間が必要なこともあります。ここで大切なことは、いま目に見える災い、困難さがもしかしたら後になって「あの時は…」と懐かしく思い出せるものかもしれない、ということを心に留めておくことかと思われます。それによってわずかでも心のゆとりが生まれ、自分の考え方と向き合うことができるかもしれません。
「大切なのはあなたがアッラーを信頼しているかどうか」
筆者が子供のことやら人間関係やらに煮詰まっていたある時期に、深い信仰を持つ年配のネイティブムスリムの女性に少しだけ相談を持ちかけたことがありました。詳しい話はしたくなかった為、「いろいろあったり、人にいやな感情を抱いてしまったり、心がすさんでいる」とだけ話したのですが、「誰がどうしたとか、何がどうなったとかで煮詰まってしまった時には、他の何ものでもなく自分を見て、自分がアッラーを信頼しているかどうかを確認しなさい、大切なのはそこだから」と言われました。その時、実は枝葉末節であった様々な事柄が自分の中からそれこそ枝のようにばさばさと落ち、自分と向き合えた気がしたのを覚えています。「本当にアッラーを信頼している人の目には、ほとんどのことは試練ですらない」という、このような深い信仰心から来る言葉は、頭ではわかっても実際に感じるようになるのは私たちにはずいぶん遠い道かも知れません。しかし少なくとも「自分と向き合う」ということは困難に直面した際に非常に重要なのは確実と思われます。これはとにかく自分を責める、とか自分のせいにする、ということではなく、自分を客観視して自分のあり方を再確認する、ということです。
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