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礼拝の意味

 

ムスリムは毎日の礼拝を大切にします。それは、礼拝がアッラーに近づくことが出来る一番有効な時間だからです。礼拝を通してアッラーの命令に従う義務を果たし、アッラーを讃え、感謝し、自分の行いを悔悟する…多くの利点を併せ持つ礼拝はイスラームの大黒柱とも言われています。

 

 

崇拝行為としての礼拝

 

アッラーは、私たち人間に対してアッラーのみを崇拝をすることを命令されました。神のお喜び得られる良い行為はすべて崇拝行為になります。人間の行う普通の行為を崇拝に変えるのはその行為を行う際の「人問の意思」です。意思(ニッヤ)をなくして崇拝は成り立たちません。強制的に行われる崇拝はかたち上では崇拝であっても、崇拝をする人の自由意思が存在しない限り本来の意味での崇拝にはならないのです。そのために、他人に崇拝を強制することはイスラームでは許されない行為なのです。

崇拝行為、直接にアッラーにのみ捧げるべきものです。信者の祈りを神にとどけてくれる仲介者の存在は認められません。また、人間の罪を神にかわって許してくれるいかなるものも存在しません。信者は崇拝にあたっては、神と直接に対面していると考えます。崇拝の継続と誠意こそが、人を碓―な創造者に近づけ、そのお喜びを得ることに繋がるのです。

崇拝とは、偉人なるアッラーのお恵みすべてに対する、人間側からの少ないながらも精―杯の感謝の気持ちを表れなのです。神からの無数のお恵みの価値を正しく評価できる人は、それに対する感謝の義務を負っていると感じます。このような感情を抱くのは自然なことでしょう。言い換えれば、感謝の念を持つ者には、崇拝は必然なのです。アッラーを崇拝する人は、精神的な安定を得、幸せになれることができます。この幸福感こそ、崇拝を楽しみとし、行わない限り満足感に達しないようにするのです。

イスラームにおける礼拝は人々の日常の生活に支障をきたすものではありません。時間もとらず、難しくもありません。

礼拝は厳しく定められたものではなく、人の必要に応じた柔軟性を有します。たとえば、旅行中の礼拝は短くなり、断食の月の断食をするのもしないのも旅人の自由となる等です。 崇拝は、人にとって欲望の自制の訓練であるのと同時に、心を安らげる効果をもたらします。信頼できるものを持つ者には安心があります。

崇拝行為は、個々人で行うものであり、ほかの人の代わりに崇拝をする、礼拝をすることはできません。もちろん、ほかの人のために、健康であるように、成功するように、などと祈ることは勧められます。礼拝は行った者自身のもので、礼拝をする代わりに困っている人にお金を上げても礼拝をしたとはなりません。困った人を助けることは確かによいことですが、―定の条件を満たす者には礼拝、断食等の義務があって、これらを自発的に行うことが求められているのです。

形式の決まった崇拝とは別に、人間は日常生活において善意を持って行うすべての行動も崇拝となり、それによって人間は神に近づくのです。

 

 

 

 

 

アッラーに一番近づく時間

 

礼拝はイスラームのするべき5行の一つであり、その中でも一番の柱とも言われています。

しかし、一日五回の義務の礼拝のトータルの時間は、個人差があったとしても、一般的に一時間には満たないものでしょう。私たちは仕事や家庭、生活全般、その他の様々な出来事に忙しい毎日を送っています。その中で、アッラーを思い出し、感謝し、祈る時間は果たしてどれくらいでしょうか。

 

実際、礼拝には、多くの恵みが備わっています。

まず、5行である「礼拝」という崇拝行為に対してアッラーの命令を果たすこと、礼拝中に多くドゥアー(祈り)や讃美をすること、アッラーへ恵みの感謝を捧げること、自分自身の罪についてアッラーの赦しを請うこと、自分自身を見つめて反省を行うこと、家族や友人、世界中のムスリムの兄弟姉妹たちのために祈ること・・・など。少し考えただけで色々出てきます。実際はもっとあるでしょう。このように、実に多くの恵みが「礼拝」という時間にぎゅっと詰まっているのです。

 

礼拝を始めるにあたって、「イスラームの事をよく分からないから、礼拝を始めるのはまだ早いと思う」、「礼拝に対して気持ちの準備ができていない」などの理由で、礼拝を始めることに躊躇されている方もいらっしゃるかもしれません。イスラームは信仰を強制しませんし、物事を難しくすることをお勧めしていません。また自分の意志があってこその崇拝行為です。しかし、もしご自身の中に、「私はムスリムとして礼拝をしなくていいのだろうか」という一抹の気持ちを持たれていれば、一度実践してみてはいかがでしょうか。

 

このように提案するのも私自身の経験からの想いです。

筆者は改宗後もすぐには礼拝を始められず、色々悩み考えました。(アッラーよ、お許し下さい)

実際、上記のような理由も沢山持ち合わせていました。丁度その時期に、個人的な悩みにぶつかっており、解決のために自分なりに色々試したものの更に状況は悪化していく中で、もがいたあげくにふと、「礼拝をはじめてみよう、頼みにしてみよう」と思ったのです。

礼拝をはじめてみて、私の中では想像以上の驚きと満足感がありました。まず私の心の状態が変わり、色々なことを寛容に思えるようになり、悩みへの対応も変わりました。そしてアッラーをより身近に感じて、色々な場面でアッラーを想い、感謝しようという思考回路ができたと思います。そして、「ああ、こんなに素晴らしい思いができるのであれば、もっと早く礼拝をはじめていれば。。」と悔やみました。

 

以前は、礼拝をするムスリムの方を横目に、「一日5回続けていくのは大変だろうな」と非常に短絡的な考え方をしていました。彼女たちが向かっていたのは、私が考えていたようなカタチとしての「礼拝」ではなかったのです。礼拝を終えて初めて、礼拝を欠かさないムスリムの気持ちが分かった気がしました。

礼拝をしていく中で、アッラーに向かい、祈り、守られているという安心感と同時に、自分の言動について内省する機会を多く持つことができます。残念ながら、普段は自我(ナフス)が邪魔をして自分が反省すべきことを考えることが難しいものです。しかし、礼拝の時間は、全てをお見通しであるアッラーを前にして、自分の弱さも欠点もさらけ出しアッラーに頼り、色々な事をドゥアします。それが自分の心や精神状態、行いにはっきりと反映されるように思うのです。

 

その後、礼拝についてこのような話を耳にしました。

「礼拝はアッラーとの会話であり、最も近づことができる時間」であると。礼拝の一連の動きの中で、額と鼻を地面につけるサジダ(平状礼)という姿勢があります。そのサジダの時は、アッラーに一番近づく時間なのです。この話を聞いた時、本当に嬉しくなって、早く礼拝をしたい、ずっとサジダをしていたい思いに駆られました。

 

「しもべは礼拝でサジダしている時ほど、アッラーに近づいている時はない。サジダをしている間にもっと祈りなさい」(サーヒフムスリム)

「またサジダする者たちの間での、あなたの諸動作を(も見ておられる方に)」(聖クルアーン26章219節)

 

実際、ムスリムの中には、礼拝をしている人、していない人もいます。私たちは他人のそれを評価し判断することはできません。信仰はアッラーとその人自身のものであるからです。

しかし私自身の経験から、礼拝をお勧めしたい、と是非思います。礼拝には本当に偉大な力が秘められています。礼拝はアッラーを近くに感じる時間であり、大きな恵みと報酬を得る機会でもあり、自分の信仰を保ち、成長させ、普段の生活や自身の言動、精神状態にまでに大きく影響を及ぼす行為であるということをお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

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