礼拝の徳

 

「礼拝は信仰の柱」という言われるように、クルアーンやハディース(預言者ムハンマドの言語録)でも、

礼拝を勧める記述が多く見られます。クルアーンとハディースの見地から礼拝の徳について。

 

 

礼拝の徳

 

「礼拝」について聖クルアーンでは沢山の記述があります。

 

「礼拝に立て、礼拝は信者に課せられた定時の掟である」(婦人章103節)

 

「あなたに啓示された啓典を読誦し、礼拝の努めを守れ。本当に礼拝は(人を)醜行と悪事から

遠ざける。」(蜘蛛章45節)

 

「それで、夕暮れにまた暁に、アッらーを讃えなさい。天においても地においても、栄光は彼に属する。午後遅くに、また日の傾き初めに(アッラーを讃えなさい」(ビザンチン章17節)

 

 

「礼拝の徳」について、預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)は次のようにおっしゃっています。

 

「イスラームは5つの上に建てられている。アッラー以外に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒であると証言すること、礼拝に立つこと、ザカート(喜捨)を払うこと、アッラーの館へのハッジの巡礼。ラマダーンの断食。」(ブハーリー)

 

「5回の礼拝とは、あなた方のうち誰かの家の戸口に流れる清く豊かな川に、毎日5回浸かるようなものです。そうする者にどんな汚れが残ると思いますか。何もありません。5回の礼拝は、水が汚れを流すように罪を消し去ります。」(ムスリム)

 

「ムスリムが定めの礼拝の時刻をなり、ウドゥー(礼拝前に体を清める事)をしっかりと行い、

恐れ譲り、きちんと頭を下げれば、必ずやその礼拝は大罪を犯していない限り、それ以前に犯した罪の帳消しとなる。生涯においてこのようである。」(ムスリム)

 

「アッラーにたくさんサジダ(平伏礼:礼拝時に額を地につける礼)をしなさい。あなたが一度サジダすればアッラーはそれでもってあなたの天国での地位を一段と高く上げてくれ、あなたの過ちを一つ消してくれます。」(サーヒフムスリム)

 

「しもべは礼拝でサジダしている時ほどアッラーに近づいている時はない。サジダしている間にもっと祈りなさい。」(サーヒフムスリム)

 

「礼拝は宗教の柱である」

 

また、一日五回の義務の礼拝について。

 

「5つの礼拝をアッラーはしもべたちに課された。それらを実行し、その義務を軽視し、わずかにも怠ることがなければ、その者にはアッラーの御許しにおいて楽園に入る約束がなされる。礼拝を実行しない者には、アッラーの御許しにはなんの約束もない。アッラーはお望みならばその者を罰し、お望みならば御許しになる。」(アフマド)

 

イスラームの先生方の言葉もあります。

 

「礼拝を怠る者こそ哀れ。憤怒、欲情、貪婪が嵐となって彼を襲う」(メヴラーナ)

※貪婪(どんらん:ひどく欲が深いこと)

 

「あなたが財産と子孫、友人を増やしたいと望むならば、定められた礼拝を行いなさい。それが審判の日であっても絶やさず礼拝を捧げ、あなたの友のために祈り、それで彼らの心の慰めとしなさい。男であれ女であれ、定められた礼拝と賛美を絶やさぬ者であれば誰でも、物質界と精神界における望みのすべてを神が満たされることに疑いはないのだから。」(メヴラーナ)

 

 

 

 

 

礼拝によって気づくこと

 

礼拝(サラート)は、ムスリムにとってもっとも基本的義務のひとつです。義務とれる礼拝は―日に五回あります。夜明け前、正午、午後、日没、そして夜です。礼拝は集団で行うのが望ましいともされていますが、―日の5回の祈りは、皆―人―人でも、清潔でさえあればどんな場所ででもできます。毎週金曜日の正午の金曜礼拝と年に二回ある祝祭の礼拝は、集団で行わなければなりません。また、これらの礼拝とは別に、人は好きなだけ任意的な礼拝をすることができます。

特定の形式をもつ礼拝には、いくつかの様式があります。礼拝をする人は、人きな報酬(サワーブ)を得ることになります。礼拝は、イスラームの大黒柱であるとされています。人は、礼拝の行いを守っている限り敬虔なイスラーム教徒となります。アッラーは次のように命じられます。

「あなた啓示された啓典を読話し、礼拝の務めを守れ。本当に礼拝は(人を)醜行と悪事から遠ざける。なお、もっとも大事なことは、アッラーを唱念(ズイクル)することである。アッラーはあなた方の行うことを知っておられる。」

 

人が強者の側にいることで自分も強くなったかのように感じるように、ムスリムは礼拝を通して、至大至高にして慈愛に満ちたアッラーと近づく機会を保つことによって自己の行為に自信を持つことができます。

そして、礼拝により、私たちは人間本来の姿に気づくことができます。つまり、人間は至高のアッラーのしもべであり、彼によって生かされている存在だということです。現世における様々なことがらがそれを私たちに忘れさせ、来世との関係を忘れさせたとき、 礼拝はわたしたちがアッラーのしもべであり、支配されている存在だということを思い出させてくれるのです。


礼拝は、人間の心の中に、「私たちに援助し、恵みを与えてくれる者はアッラー以外にいない。」ということをしっかりと植え付けてくれます。表向き、わたしたちは、現世において多くの執り成しや、原因を目にすることができますが、じつはそれらすべて、アッラーがわれわれのために用意してくださったものなのです。


私たちはこの真実を忘れたり、現世の目に見える原因だけに気をとられてしまうことがあります。そんな時、礼拝によって、私たちに原因をおつくりになられるのはアッラーだけであり、そのアッラーは援助者、恵みを与えてくれるお方でありこと、様々なことで私たちを試練なさるお方であること、生かせ、死なすお方である、ということを思い出させてくれるのです。

 

礼拝から、犯してしまった罪のタウバ(悔悟)のためのひと時を得ます。人間は昼も夜も罪を犯す危険にさらされており、時に、罪を犯したという自覚をもち、時に無自覚でいるのです。


そんなとき、少なくとも1日5回繰り返される礼拝はその罪をわたしたちから取り除く役目をしてくれるのです。
して礼拝はアッラーを信仰するための絶え間なく与えられる栄養のようなものです。人間は現世でのいろいろな仕事やシャイターン(悪魔)からの囁きにより、アッラーへの信仰を忘れそうになることが多々あります。それはあたかも、水を与えられない植物がしおれ、しだいに枯れていき、しまいには燃やされるための薪などになるようなことなのです。しかしながら、もしもムスリムが礼拝を続けていれば、それが彼の信仰心への栄養となり、現世におこる様々な出来事は人間の信仰心を弱らせることも、滅ぼしてしまうこともなくなるでしょう。