人間と世界の本質

 

 

第8のことばより 〔預言者イブラーヒームに啓示された本である話を通じて人間と世界の本質を説明する。〕

アッラー、かれの外に神はなく、永生に自存される御方。


本当にアッラーの御許(みもと)の教えは、イスラーム(主の意思に服従(ふくじゅう)、帰依すること)である。


この世界における、そしてこの世界に存在する人間の魂、そして人間における教えの本質と重要性、そしてもしこの真実の教えが無かったとしたらこの世は牢獄のようであり、人が教えを持たなければこの上なく不幸な存在であるということを理解したければ、さらにはこの世界の神秘を解き明かし、人の魂を苦しみから救うのが「アッラーのほかに神はなし」という言葉であることを理解したければ、この小話を聞いてみなさい。


ある時二人の兄弟が長い旅に出かけた。その内に道が二つに分かれた。道が分かれるところに、しっかりした男がいるのを彼らは見た。彼らはその男に尋ねた。


「どちらの道を通ればいいですか?」


男は彼らに答えていった。


「右にいけば、そちらでは決まりごとや秩序に従う必要がある。しかしそういった義務の中には安全や信用がある。左の道には自由がある。しかしその自由の中には危険やリスクが伴う。どちらかを選ぶかはあなた方の自由だ。」


それを聞いて、ふたりのうち善良な正確の者は*「アッラーを信頼する」といいつつ右側の道を行き始めた。もう一人の方は自由に惹かれて左側の道を選んだ。一見容易そうで実際は非常に困難な状態に陥っていくこの人のほうを追跡してみよう。


男は野こえ山こえ行くうちに何もない砂漠に行きついた。そこで突如大きな声を聞いた。ライオンが樫の木々の間から飛び出してきて彼を襲ったのだ。男は逃げ、60アルシュン(1アルシュンは約68センチ)はあろうかという空井戸に行きついた。恐怖のあまり男はその井戸に飛び込んだ。井戸の中ほどまで落ちたところで、彼は木に引っかかった。井戸の壁から一本の木が生えていて、その根を白と黒の2匹のねずみがかじっているのであった。上を見るとさっきのライオンが待ち構えていた。下を見ると、恐ろしい怪物がそこにいた。頭を持ち上げ、井戸の中ほどにいる男の足に近づいてきていた。その口は井戸の口と同じ位大きかった。井戸の内壁を見ると、そこには有害で噛み付く害虫がびっしり張り付いていた。木の先を見ると、それはいちじくの木であったが、いろいろな種類の果実、クルミやザクロまでがそこに実っていた。


しかしこの男はその愚かさの故に、この状態が通常のことではなく、偶然に起こったことでもないということを理解できなかった。この奇妙な出来事には何か秘められたことがあり、それを行なっている大きな存在があることを理解しなかったのであった。


今ここで彼の心や精神がこのひどい状態に陥ったことに嘆き苦しんでいるにもかかわらず、彼の自我は魂や心の悲鳴に耳を閉ざし、何事もないかのように自らをだまし、あたかも果樹園にでもいるかのように、その木の果物を食べ始めたのである。ただ、その果実のいくつかは毒をもっているのだった。
聖なるハディースでアラーはおっしゃられている。*「しもべが私をどのように知っているのであれ、私も彼に対してそのように振舞う。」


この不運な男は、その愚かさと理解力の無さの故に、彼が理解した事項を本当だと思い込んだ。そしてその故に彼に対してそのように振舞われたのである。今でも、これからもその状態が続くだろう。死にもしないが生きているとも言いがたい状態である。我々はこの人の追跡をここで一度やめて、もう片方の男を追ってみよう。
こちらの利口な男もどんどん道を進んでいった。しかしもう一人の兄弟ほどには困難な道ではなかった。彼はその善良な正確故に物事を良い形で捉え、なじんでいったのである。その上兄弟ほどに苦労もしなかった。彼は決まりごとを知り、秩序に従い、それによって物事を容易にしたのである。治安と安全のうちに自由に旅をしたのであった。


そのうちにある庭園に行きついた。そこには美しい花や果実があった。手入れをされていない為に汚いものもあった。彼の兄弟も同じようなものに出くわしたが、彼はそういうものにこだわって気分を悪くしたのであった。ほとんど休むことなくそこから去ったのだった。しかしこちらの男は「物事の良い面を見なさい」という規則に従い、そういう汚いものを見ないようにした。十分に休んでからそこを出かけた。


そこからさらに進んで、前の男と同じようにこの男も大きな砂漠に行きついた。そこで彼を襲うライオンの声を聞いた。彼は恐れたが、兄弟ほどに怖がりはしなかった。「この砂漠には支配者がいるはずだ。このライオンはその支配者の命令にしたがっているのかも知れない。」と考え、自らを慰めようとした。ただしそれでも彼は逃げた。60アルシュンの深さの水のない井戸に行きつき、その中に飛び込んだ。兄弟と同じように、途中で木に引っかかった。2匹のねずみがその木の根をかじっているのを見た。上にはライオンがいて、下には怪物がいた。兄弟と同じように奇妙な状態に陥ったのである。彼は恐れたが、彼の兄弟の恐怖に比べると千分の一程度であった。なぜなら彼の善良な性格の故に彼は良い形で考えるからである。良い形で考えることは、物事の良い面を彼に示したのであった。


すなわち彼は次のように考えたのであった。


「この奇妙な出来事はそれぞれつながりあっている。しかもそれぞれが何かに従って動いているように思える。何かが秘められているに違いない。これらは皆、なぞの支配者の命令によって動いているのだ。ということは、私はここで孤立しているというわけではない。この秘められた支配者が私を観察しているはずである。私を試し、何か目的があって私を招いているのだ。」


こういった考えからは新たな興味が生まれる。


「私を試し、自らの存在を私に知らせようとし、私を何かの目的で呼び使わそうとしているのはいったい何者だろうか?」


そして彼はその存在に対する興味から、それに会いたいと願った。あうことによってこれらの秘密を知ることを願った。この秘められた力の主に気に入りたいとも願った。それから彼は木の先を見た。それはイチジクの木であるが、そこには何千もの種類の果実が実っていた。それを見て彼の恐怖はほとんど消えてしまった。なぜなら、彼はこのイチジクの木があるリストであり、一覧であり、展示であることを理解したのである。この秘められた支配者は果樹園や畑にあるさまざまな種類の果実を、その力と奇跡によってその一本の木に取り付け、客の為の食糧の見本という形でこの木を整えたに違いない。そうでなければ、一本の木が何千もの種類の果実を実らせることはありえない。


そして彼は祈り始めた。この秘められた力の鍵が彼にひらめいたのである。


「ああ、この土地の支配者よ。私の運命はあなたにゆだねられました。あなたに庇護を求めます。あなたに仕えます。あなたの承認を求めます。そして私はあなたを探し求めているのです。」


この願いの後、突然井戸の内壁が二つに分かれ、美しい庭園へ続く扉が開かれた。おそらくはあの怪物の口がその扉に変ったようであった。そしてライオンと怪物は従順な二人の召使となった。そして彼を扉の内側へと招いたのである。更にこのライオンは、彼の為の従順な馬となった。


さあ、怠惰なわが魂よ。そして空想のわが友よ。来なさい、この二人の兄弟の状況を比較してみよう。善がどのようなよい結果をもたらし、悪がどのような悪い結果をもたらすのか、見てみよう。


見なさい。左側の道を選んだ不運な旅人は、常に怪物の口の中に落ちてしまう危険性の中にいる。もう一方の幸運な男は、気持ちのよい庭園へ招かれたのである。不運な男はひどい災難と恐怖の中で心臓がすくみ上がるような目にあったが、幸運な男は、警戒と恐怖の中でも珍しいものを見届けている。不運な男は失望と孤独の中にいるが幸運な男はなじみ、希望と喜びの中にいる。不運な男は自らをいつ猛獣に襲われるか分からないとらわれ人として見なすが、幸運な男は一人の客であり、ホストの召使たちと親しくなったと見なす。更にこの不運な男は、おいしそうに見えて実際には毒入りかもしれない果実を食べることによってその罰を重くしているのである。なぜならこれらの果実は見本である。本物を求め、それを受け取るのなら、味を見ることは許される。しかし動物のようにそれらを食べつくすことは許されていないのである。幸運な男はそれを味わい、それが何であるかを理解する。すぐには食べようとはしない。待つことによっても楽しみを味わうのである。そして、不運な男は自らを困難に陥れたのだ。本来はよいものであるはずの事実と状況を、自らの思慮のなさによって暗く困難な状況に変えてしまったのである。それゆえ、誰からも同情されるに値しなければ、誰かを非難する権利もないのだ。


例えば、人が美しい庭園で、友人達に囲まれ、心地よい気候の中楽しい宴会を行っているというのに、それに満足せず酒に逃避し、酔っ払い、そのせいで自らをつらい気候の中で怪物に囲まれていると思い込んだとしたら、そして泣き始めたとしたら、これは同情には値しないであろう。彼自身が自らを苦しめているのである。親友が怪物に見えているだけである。そう、この不運な男はこのようであったのだ。もう一方の幸運な男は真実を見ている。真実は美しいものであり、それを理解することによって、その持ち主の完全さを敬うようになる。そして、その慈悲にふさわしい存在となるのである。


ここで「悪いことは己から、よいことはアッラーから」というクルアーンの法則が明らかにされている。このような比較を更に行うことによって、この不運な男の自己が彼自身に精神的な地獄を用意するものであるということが分かるだろう。もう一方の男のよい考え、よい性格、よいものの見方は彼に偉大な恵みと幸福をもたらし、輝かしい徳と思考を与えたのである。


わが自己よ。そして共にこの話を聞いた人よ。


もし、この不運な男のようになりたくなければ、そして幸運な男のようでありたければ、クルアーンを聞き、その法に従いなさい。それに基づいて振舞いなさい。


このたとえ話に秘められた真実を理解したのであれば、教え、世界、人、そして信心をそれに当てはまることができるだろう。ポンチとなる部分を私が説明しよう。細かい部分は自分自身で考えて見なさい。


この二人の兄弟とは、一人が信者の魂であり、よい心である。もう一方は信じない者の魂であり、アッラーの命令を聞き入れない心である。二つの道の一つ、右側はクルアーンと信仰の道であり、左側は不信仰、神に対して恩知らずであることの道である。道の途中にあった庭園とは人間社会である。かつ、その文化の中に現れては消える社会生活である。その中にはいいこともあれば悪いこともあり、綺麗なものもあれば汚いものもある。利口な者は「綺麗で混じりけのないものを選び、不純でにごったものは残しなさい」という法に基づいて行動し、心の平安のうちにそこを過ぎる。


 砂漠とはこの世界である。


 ライオンは死と寿命である。


 井戸は人の肉体であり、生きる時間である。


 60アルシュンの深さとは、平均的な人の寿命である60年を意味している。


 そこにあった木は、寿命であり、生を構成する要素を意味する。


 白と黒の二匹のねずみは昼と夜である。


 怪物は、墓を入り口とし、死後魂の通る道を意味している。しかし信じるものにとってそれはこの世という監獄から庭園へ抜ける扉である。


害虫たちは、この世における災いを意味している。しかし信者にとっては、のんきさに溺れてしまわない為の神の警告であり、慈悲深い神の好意である。


そして、木に実っている果実は、この世における恵みである。慈悲深く気前のよい神はこれらを天国における恵みのリストとして、同時に準備として、天国の果実の客達を招く見本として作られた。


この木が一本であるにもかかわらずさまざまな種類の果実を実らせることは、神の力のしるし、神が全てを創造され、それぞれに与えられた役割を完全に果たさせられることのしるし、そして唯一従い敬われるにふさわしい神の壮麗さのしるしである。なぜなら「一つだけのものから全てを作り出す。」すなわち大地からあらゆる種類の植物、果実を創造すること、一滴の自ら全ての動物を作られること、食べ物から生き物達の臓器を作られること、それと共に「全てのものを一つにする。」すなわち、その生き物が食べた無数の種類の食べ物が皆その動物の肉となること、皮膚になること、これらは唯一であり、全てのものによって必要とされ、かつ御自身は何ものをも必要とされないお方、始まりも終わりもない支配者のしるしである。特別のしるしである。一つのものから全てを作られ、また全てのものを一つにされるということは、全能なる創造主にしかありえないことなのだ。


秘められた力とは信仰の神秘であり、創造の神意の秘密である。


鍵とは、「アッラーよ◎アッラーの外に神はなく◎アッラーの外に神はなく永生に自存される御方」である。
あの怪物の鍵が庭園への扉に変ったことは、次のことを意味している。すなわち、墓というものが信じようとしない人々にとって孤独と忘却の中にあり監獄のように苦しく、怪物の腹のような狭いところにつながる入り口であるにもかかわらず、信じる人々にとってはこの世という監獄から永遠なる庭園へ、試練の場から天国の庭へ、この世の苦労から神の慈愛へとつながる扉なのである。


そして、あのライオンが親しげな召使に変った、忠実な馬になったことは、次のことを意味している。すなわち、死は、信仰を持たない人にとって愛する全てのものとの永遠の別離であり、見せ掛けだけの天国から孤独でつらい墓場という監獄に移され、閉じ込められることである。しかし信仰を持つ人にとって死は、あの世に去っていった昔の友や愛する人々と再開する手段なのだ。更には、真の祖国へ、永遠の幸福の地に行く手段でもある。この世の監獄からあの世の庭園への招待状である。慈悲深い神の恵みによって、それまでの行為にふさわしい報奨を受け取る場でもある。生という困難な任務からの退役でもある。試練からの休息でもある。


要約


誰であれ、このはかない生を目標にしてしまったならば、一見天国にいるように見えたとしても、精神的には地獄にいるのである。そして誰であれ永遠の生に真剣に向き直ったら、この世とあの世、二つの世界における幸福に達成したということなのだ。この世においてどれほど苦しみの中にいたとしても、この世を天国への待合室とみなし、それによって心地よくみなし、忍耐し、忍耐のうちの感謝するのである。