労働者と雇用者の関係

 

 

他者の所有する職を、報奨を対価として行なう責任を負った人を労働者と呼び、その職を所有し資本力を手にしている人、報奨を与えることによって他者を働かせる人、彼らに継続的な労働を確保させる人を、雇用者と呼ぶ。雇用者は個人でもありうるし、財団、会社、国家のような法人でもありえる。

雇用者と労働者の区別が、それぞれ別の階級として現れるのは、経済活動が大規模で行なわれるようになった時代に特有の事象であり、特に西洋に見られるものである。労働生活において、はたらきが貸与される、もしくはそれを貸与すると言う面で労働者と雇用者(仕事を与える者)という表現はイスラーム世界にも存在する。しかしこの区別は、労働階級、プロレタリア、パトロン、ブルジョワジーといった概念によって連想されるようなものとは完全に異なる。

 

ムスリムの社会生活においては、階級間の区別、衝突、闘争といったものは決して存在しえない。なぜならイスラーム社会は、宗教上の兄弟であることを基本とし、それぞれが自分の率いる群れに対し責任を持つ羊飼いのようであり、どのような些少な善でも、あるいは悪でも、かならず来世でその見返りを受けるという信仰に結びついた道徳の上に形成されているからである。だからムスリムにとって「労働者」という表現は、個人的な概念なのだ。なぜなら人々はこの公正な均衡のもとにあって、いつまでも労働者、労働者であり続けるわけではないかもしれないからである。昨日まで労働者であった人が、今日は富裕者となるかもしれない。今日は自分の労働によって日々を過ごしている人が、明日には富を共有したり、農業を共に行なったりといったようなパートナーシップを利用して、雇用者としての地位を獲得するかもしれない。

 

a) 労働-資本の闘争

労働と給与、労働と資本というテーマは、社会革命史にすら関わる非常に重要なものである。実際、ベディウッザマン師は、「この世界における革命とは何か」という問いに、「労働が資本と戦うこと」と答えている。金持ちがわずかな賃金を見返りとして、貧しい人たちを自分達の召使のようにすること、つまり資本家達が労働者達をわずかな給料で雇用することが、大きな革命の原因となったことは注意をひくものである。そう、社会主義、ボルシェビック主義としてまずロシアを苦しめ、そして世界中に広がった労働-資本の闘争は、富裕者と貧者の間に深刻な敵意と憎悪をもたらした。朝から晩までわずかな賃金の為に身を粉にして働き続ける貧しい人々の心に、銀行を媒介として一日に何百万と稼ぐ資本家達への敵意が芽生えたこと、各地で人々が奮起することによって始まった階級間の闘争は何年も続いたのであった。

そもそも、闘争の根本的な部分を形成しているテーマは非常に単純なものである。「資本が本質なのか、あるいは労働が本質なのか。」

当時から今まで、いろいろと論争されたことはすべて、このテーマの周辺に位置するものであった。しかし最初の段階で誤ったところに入り込んでしまい、そこから抜け出すことができないでいるのだ。

経済システムの一部は、資本を基本と見なし、それを全てだとしている。そして「資本がなければ何事もできない。」という見解を維持し、人の汗や努力に一切の価値を見出さない。彼らによれば、労働者は地下の鉱山で働こうと、通路で息がきれようと、畑で鎌を振るおうと石を背負おうと、労働というものの価値は限られたものにすぎない。労働者に支払われる賃金も、資本を使えるようにしてやる為、であり、喜捨のようなものと見なされる。このようにこの見解においては、資本はまさに崇拝の対象となることが求められ、過去の世界のやすらぎをある意味で破壊したのと同様、今日でも多くの民族や国家を、この見解が飲み込んでしまっている。

これへの反応として登場した一部のシステムや見解では、労働を神聖化し、「全ては労働によって成り立つ。」と訴え、新たな偶像を持ち出したのである。この見解によるなら、資本は単に抑圧の手段であり、資本家とは労働者の血を吸う寄生虫のようなものなのだ。

双方の思想における極端な両極化は、、一定の時期においては非常に大きな規模に達した秩序の霍乱や分裂をもたらした。この不幸な時代は、人々が路上にあふれ、荒波にもまれ、世界規模での階級間衝突が起こった暗い時代の一端となったのである。もちろんこの間には、集団での誓約やストライキ、工場閉鎖等に解決策が求められもした。しかしこれら全てが何十もの傷口への手当てに力の及ぶものだったのか、あるいはそれを悪化させ、壊疽させるものだったのか、その答えは時が示すであろう。

 

b) 労働-資本への、イスラームによる捉え方

このテーマをイスラームの観点から見るなら、労働と資本とは魂と肉体のように一つの完全体なのである。魂、すなわち労働が基本であり、肉体、すなわち資本はそれに結びついたものである。資本における均衡、システム、つりあい、勢いや活発さは労働にも直接関わるものである。

「今日の資本は、昨日の労働への対価である。」と語ったマルクスは、労働と資本の結びつきへの一つの見方を示している。一つの見方、とここでは述べる。なぜなら当然、全ての資本が労働に頼ったものと見なすのは正しくないからである。私達の状態や私達の生きる世界を細かく見ていくなら、無数の、最初に与えられた時には何の労働もそこに存在せず、無償で与えられており、いつでも恵みを受けているものがあることに気がつくだろう。

 異なる観点から見ていくなら、マルクスのこの観点には正しい部分がないわけではない。なぜならアッラーは「人間は、その努力したもの以外、何も得ることは出来ない。その努力(の成果)は、やがて認められるであろう。やがて報奨は、十分に報いられる。」(星章第39-41節)と仰せられているからである。吉報を明言するクルアーンの章句のこの表現を鑑(かんが)みるなら、資本のもとに労働が存在しているという真実も見出すことができる。この観点から見るなら、やはり基本は労働であり、資本はそれに隷属するものであるということができるだろう。しかしこの見方は、資本を価値のないものとするものではなく、労働を崇拝の対象物とするものでもない。

 

他者がどのような見方をとろうと、イスラームは労働と資本とを並べ、それぞれの権利をそれぞれの権利の対象者に、遅れることなく与えたのだ。なぜなら預言者ムハンマドは、「労働者を雇う者は、しごとを始めさせる段階で、彼に与える賃金を明らかにしなさい。」とおっしゃられているのだ。また「あなたが働かせた人々への賃金を、彼らの汗が乾く前に与えなさい。」ともおっしゃっておられる。これによって一方で労働を褒め、同時に資本家にも目を向け、雇用者の権利の侵害や労働法の蹂躙(じゅうりん)などがハラームとされている。

一方で預言者ムハンマドは、時折、ウンマの注意を喚起する為に語られた話の中で、信者である雇用者が、労働者の努力を評価し、彼をも資本の持ち主とすることを奨励されている。「洞窟の出来事」とも言われるある聖ハディースで、次のような出来事が語られている。

夜をすごす為に洞窟に入ってきた三人の人が、山から落ちてきた大きな岩が転がり込んで入り口を塞いでしまったことによって、そこから出られなくなっている。そこで順番に、アッラーの御前において認められると考えている行為を媒介とし、アッラーに、岩が転がっていってしまうよう願う。一人目は母や父に良く振舞ったことを媒介として願う。二人目は、まさにハラームを犯そうとし、純潔を汚そうとしたその瞬間にアッラーへの畏怖によって思いとどまったことをドゥアーに取り入れる。二つのドゥアーに対して、岩はわずかに動くが、しかしそこから出られるほどには隙間ができない。

三人目の人は次のようにドゥアーを行なう。

「アッラーよ、私は一人の労働者を雇っていました。他の労働者に賃金を払ったのと同様、彼にも賃金を払おうと思いました。しかし彼は私が示した賃金を認めず、『それは受け取らない』と言って行ってしまったのです。彼には一頭の羊を与えるはずでした。彼が行ってしまったので、私は羊を繁殖させ、何年か後には一頭の羊が大家族に増えていました。そんなある日、あの男がやってきて、自分の権利を求めました。私は群れを見せ、これがあなたの権利だ、と言いました。『私は貧しい人間だ、からかわないでくれ』と彼が言ったので、『神に誓って、からかってはいない。あなたが受け取らなかった羊が、こうなったのだ。今こそ受け取って、連れて行きなさい。』と言いました。彼は喜んで、群れを全て連れて行きました。主よ、私はあなたゆえにこれを行なったのです。もしこのことをお慶びくださるなら、洞窟の入り口を開けてください。」

このドゥアーの後、岩は完全にどけられ、彼らは皆外に出ることができたのだ。

預言者ムハンマドはこの出来事を語られることによって、社会生活における安定や信頼への基盤となる、三つの重要な項目を示しておられる。老人に良く振舞い、両親の権利を守ること、純潔を守って生き、そして他の人々の純潔を侵害しないという徳、そして労働者を共同経営者のように見なし、彼が資本の所有者となれるよう努力することの重要性を示しておられるのだ。

 

重要な点は、イスラームは、資本についても労働についてもその存在を認め、次のような原則を示していることである。労働者は仕事にしっかりと取り組み、あらゆる能力を駆使して行い、雇用者は労働者の奉仕の対価を適切な時期に、そして完全に支払う。イスラームによるなら、雇用者が労働者を抑圧したとしても、労働者は雇用者に対し暴挙で応じてはいけない。同じことが逆の場合にも適用される。他者の抑圧は、人を、同等のことを正当な権利を持って行なえる状態とするわけではないからである。「あなたがた信仰する者よ、アッラーのために堅固に立つ者として、正義に基いた証人であれ。人びとを憎悪するあまり、あなたがたは(仲間にも敵にも)正義に反してはならない。正義を行いなさい。それは最も篤信(とくしん)に近いのである。アッラーを畏れなさい。アッラーはあなたがたの行うことを熟知なされる。」(食卓章第8節)という章句に対して、労働者であろうと雇用者であろうと全ての信者は恐れ震えるべきである。そう、イスラームは、それに属する人々に獲得させたこの見方によって、このテーマに精神的な側面を与え、資本と労働の間にしっかりした結びつきを与えているのだ。

 

c) イスラーム社会における労働者と雇用者の関係の実際

イスラームが描くモチーフにおいて、労働者と雇用者は同じ体の部分部分のようである。双方の間に憎悪や敵意、不運な結びつきは存在しない。なぜなら労働者も雇用者も、職業倫理を尊重し、お互いの権利を守るからである。

そう、労働者はその額の汗が乾かないうちに自分の権利分を受け取る。同時に、自分が担当している仕事を進ませ、適切な形で完成させ、雇用者の権利を保護する。預言者ムハンマドはそのお言葉の中で、最良の利益とは、十分に気をつけて仕事を行ない、雇用者にも敬意を示しつつ得たものであると語っておられる。信者である労働者はその作業を、アッラーに対し、預言者ムハンマドに対し、そして全ての信者に示すように行う。このような人が雇用者の権利を侵害することはありえない。このような見解を持つ人は、時間を無駄にすることもなければ、払うべき努力を怠ることもない。なぜなら彼は、自分の行いが一つずつ問われる日が訪れることを信じているからである。

信者である雇用者にとっては、自分の指示に従って働く労働者は兄弟のような存在である。自分が食べているものから食べさせ、着ているものを着させ、彼らの力以上の荷を負わせない。労働者の兄弟達の権利を、アッラーの権利として見なす。そしてアッラーの取り分を分けて置くことなく自分が口にするものが全て、ハラームとなることを意識している。雇用者はまず、労働者の権利を明白にしなければならない。だからもし、雇用者が労働者に、自分の生活基準に見合った賃金を支払っていないのであれば、彼を一定の比率で経営を共にする者とするのだ。

イスラームにおいて、労働への対価をさらに良くするという目的で行なわれるストライキや、労働者の取り分の決定へ圧力をかける為に雇用者が職場を封鎖することは勧められていない。なぜならストライキは労働者にも影響をあたえるものだからである。ストライキによって仕事が停止することは、労働者にとっても損失となる。ある意味でストライキの対義語でもある職場封鎖は、生産の停止をもたらし、失業問題に発展することもある。このようなストライキや職場封鎖の結果として、双方の利益が損なわれ、この状況は、先の読めない社会的・経済的な事象、さらには紛争の発生への可能性をひらくものとなる。

当然、人間関係において、不和は発生するだろう。だから自らを被害者だと認識する人々が訴えることのできる場が必ず必要となる。イスラームでは、この目的での奉仕の為に設営されているヒスベ(労働者)組織が存在する。イスラーム世界において預言者ムハンマドの時代から存在し続けているヒスベは、普遍的な意味で「善を命じ悪を禁じる」組織である。ヒスベは第2代スルタン・オマルの時代には完全な組織として機能しており、社会の平安を守る上でこの上なく重要な役目を果たしていた。普遍的な安定をもたらすだけではなく、必要不可欠な物資が人々の手に適正な安価で渡るよう、資本家や商人たちを管理すること、労働者と雇用者の間の問題を解決することも、この組織の役割に含まれていた。

 

いくつかのシステムが、一部の「力」を作り出し、この力のせめぎあい、もしくは諸要素の調整に負われていることに対し、イスラームは双方の間の均衡、調和を守り、それぞれの利益を一致させようとする。経済生活において、失業問題の発生を防ぎ、賃金の安定した支払いを基本的な目標とする。人々をこの目標へと向かわせる際に生じる可能性のある不調和に対して、双方に必ず解決への道筋を示し、一方が他方を苦しめたり、社会形成に悪影響を及ぼしたりすることのないようにする。さらに、その基本においては主人も奴隷も、役人も労働者も、金持ちも貧者も区別することはない。こうして社会のメンバー間における調和や接近を支えるのだ。

イスラーム社会において人々は、国家やその役人をその肩に乗せているのだ。そして国家やその役人達は、その国の人々へ奉仕を行う。慈しみ深い羊飼いのように、慈愛に満ちた父のように、人々の幸福ややすらぎの中に自らの幸せや喜びを見出す。

 

このような社会においては、あらゆる組織を通じて教養や美徳の感情が育てられる。愛情や人間らしい振舞いへの扉が開かれる。人々に慈しみや、互いに理解し、調和しあうことを教える。人々を無慈悲な行いや低俗な感情から、人間性を辱めることから、そしてあらゆる粗暴さから救う。特に、神聖な概念に対し敬意を抱くよう育てられる。

 

さらに、この輝かしい人々は、社会の中で自らを無力だと感じている非ムスリムの少数派、子供達、行き場を失った人達、失業者達が保護されるという点においても、根本的かつ継続的な処置をとっている。様々な援助基金を作り、全ての人々の手をとろうとしているのだ。

富裕者と貧者の間のバランスという観点からも、イスラームは多くの、社会生活に均衡を与える基盤をもたらしている。ザカート、サダカ、犠牲、償い、寄贈、貸し借りなどが最初に思いつくものである。歴史が証言している事実として、これらが実践されている時代においては、今日のような社会階層間の格差もなく、それぞれの階層が憎悪や敵意を抱くこともなかった。なぜならムスリム達は、(表現がもし適切だとすれば)それぞれがアッラーの役人のように振舞っていたからである。ザカートや、必要ならサダカを、必要性を抱える人々へ十分に与えていたのだ。それによってイスラーム世界においては、一方の集団がこの上なく豊かで裕福で、もう一方の集団が貧しく飢えている、というようなことはありえなかったのである。この制度に従う人は、預言者ムハンマドの「隣人が飢えている時に満腹して眠る者は私達の仲間ではない。」という言葉の意味をきちんと理解し、それを実際の生活においても存分に実践していたのである。

 

イスラームにおいては、権利への配慮だけでは十分とされないのだ。ムスリムの富、財産に関して、他者もそれに権利を持っている、という意識のもとで振舞われるのである。うぬぼれや見せかけといった感情、恩を着せるといった考え方に陥ることなく、これらの権利から必要としている全ての人が益を得ることができるよう、支える。

この神のシステムにおいて、雇用者が思い上がった状態であること、富や財産をかき集めようとすること、自分の幸福だけを考えることはよしとされていない。苦しみも喜びも分かち合うという概念が発展してきた。だからこそアブー・バクルは全ての財産を人々の幸福の為に費やしたのであり、初代カリフであったのにもかかわらず、死後、後に遺された一着だけの衣服をまとい、埋葬されたのである。オマルは、飢饉(ききん)が起こった時、当時は国家の長であったが、パンを酢に浸して食べて生きながらえたのである。彼はカリフと共に、一頭だけの乗りものを交代で使い、ラクダにも順番に乗った。そしてこの事実も、当然のことのように見なし、謙虚に振舞った。アブー・フライラ・ビン・ジャッラは、軍が飢えに直面していた時代、自らも他の兵達と同様に一つ二つのナツメヤシで凌(しの)いでいた。アブー・ザッルは、ある時手に入った布を二つに分け、一つを自分用に、もう一つを雇っている労働者のものとして、服を作らせた。これらの行動の理由が問われれば、預言者ムハンマドのハディースによって答えていた。「彼らはあなたの庇護のもとに与えられた兄弟なのであり、自分が食べているものから食べさせ、着ているものから着させなさい。その力以上の仕事を与えてはいけない。困難な仕事を与えたのであれば、彼らを手伝いなさい。」

 

最後に次のことを語っておきたい。ここで私が説明しようとしてきた事柄は、ユートピア的の伝説ではない。そうではなく、何世紀も前の、最も無慈悲な攻撃に対してすら揺らぐことのなかった、神のシステムの図なのである。マディーナで起こったことは一つの事実なのだ。預言者ムハンマドは非常に短期間で、このような徳の空気に満たされた国家を作られたのだ。もし、全体的な意味で、今日のムスリムの状態がここで示したものと一致していないとしたら、その問題はイスラームにおいてその欠点を求められるべきものではない。教えを知らない、そしてそれを実践しないムスリムに落ち度があるのである。

要するに、イスラームによるなら、考えや発想、思想において方向性が獲得されない限り、経済問題が安定し、均衡を持って継続していくということはありえない。労働と資本の関係も同様である。雇用者と労働者は、一方が賃金を支払い、一方は労働を行いつつ、共にアッラーの管理のもとにいるという意識を、一瞬たりとも頭から消し去るべきではない。そしてあらゆる行為をこの意識のもとに行わなければならない。その時には、資本と労働の両方が聖なるものとなり、搾取する者・搾取される者という衝突や対立も完全になくなるだろう。このような社会にあっては、雇用者は労働者と共にあり、家族の一員のように彼と接する。食べるもの、着るもの、そして合法である限り全ての望みに対し援助を行う。労働者は、仕事と雇用者のそばにいる。富や雇用者への敵対から遠く、努力や勤勉の模範となろうと努める。仕事に最良の成果をもたらし、汗まみれになって働きつつ、崇高な世界において自らが励まされ、アッラーの御前において評価されていることを認識している。従って全てのことを、満たされた心で、イバーダの一種として行うのである。