アッラーと来世を信ずることの快適さ

 

 

第7のことばより 〔信仰条件の二つであるアッラーを信ずることと来世に信ずることはいかに人間に必要で、人間の生活にしている影響を示して、愉快な寓話で署名する。〕


「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において」


「私はアッラーに信じ、最終の日を信じる。」


この世界の神秘をひもとく、「私たちはアッラーを信じ、最後の日を信じる。」ということが人の精神にとってどれほど大切な、真実の扉を開く魔法の鍵であるか、そして忍耐を持って創造主を信頼し庇護を求め、また感謝を持って、全ての存在に糧をお与えになるお方から乞い願い、祈ることがどれほど効果的な薬のようであるか、そしてクルアーンを聞くこと、法に従うこと、礼拝を行うこと、罪を犯さないこと、これらが永遠の生への旅路においていかに重要な切符であり、あの世での糧であり、墓場を照らす光となるかを知りたければ次の話を聞きなさい。


ある時一人の兵士が戦いかつ試練の場にあって、非常に重大な状態に出くわした。


すなわち、体の左右に深い傷を負い、その後ろでは大きなライオンが彼を狙っていた。前方には絞首台があり、彼が愛するものたちをつるし上げていた。彼をも待ち構えているようであった。そして彼はこういった状態で流刑囚として長い道を行かなくてはならないのであった。この状況の中で彼が希望を失いつつあるところへ、右側から、善意に満ちた人が現れて彼にいった。「希望を失ってはいけない。私はあなたに二つの魔法の鍵をあげよう。これをよい形で使ったならあのライオンはあなたに従順な馬となるだろう。あの絞首台も楽しいブランコになる。それからあなたに二つの薬を上げよう。これらをうまく使えば、そのひどい傷はムハンマドのバラと呼ばれる美しい花になるだろう。それからあなたに切符を一枚あげよう。これがあれば一年かかる道でも一日で飛ぶように到達することができるだろう。あなたが信じないというのならば少し試してみなさい。本当だということが分かるように。」


そう、この私もこれが本当だと認めるのだ。なぜなら私も少し試してみたから。そして真実だと分かったのだ。
そして、この兵士は左側に酔っ払ったような男を見た。さまざまの装飾を身につけ、人を酔わせるようなものに囲まれた状態で現れたのであった。その男はこの兵士に言った。
「やあ、わが友よ。一緒に酒でも飲んで楽しもう。あの美しい娘たちを眺めよう。この素敵な音楽を聞こう。このうまそうな食事を楽しもう。」


男「おやおや、口の中でぶつぶつ唱えているのは何かね?」


兵士「魔法の鍵だ。」


男「おやめなさい、そんな意味の分からないものは。おや、その手にあるものは何かね?」
兵士「薬だ。」


男「そんなの捨ててしまいなさい。君は健康じゃないか。どこに使う必要がある。おやおや、その五つの印が入った紙は何かね?」


兵士「切符だ。通行保障手形だ。」


男「そんなの破ってしまいなさい。こんな気持ちのいい春の日にどうして苦しい旅に出る必要があるのだね。」
男はこうして兵士を説得にかかった。兵士も彼に傾斜しかかっていた。そう、人はだまされるのだ。私もだまされたのだった。


その時突然右側から大声が響き渡った。


「だまされるな。彼にいってやりなさい。『もし背後にいるライオンを倒すことができたら、そしてこの絞首台をどけることができるのなら、体の左右にある傷を治すことができるのなら、そして旅に出なくてもいいようにすることができるのなら、一つでも手段を知っているというのならさあやって見せてみなさい。拝見しよう。それから楽しもう。できないのならば黙っていなさい。』」


ああ、若さのうちに笑い、いまやその笑ったことゆえに泣いているわが自己よ。理解しなさい。この不運な兵士とはあなたであり、人間である。ライオンは寿命を意味する。絞首台は死、旅立ち、別離を意味する。昼と夜が移り変わるうちに親友達は皆永遠の別れを告げ、いなくなっていく。そして二つの傷、一つはうんざりするような人間の無限の弱さを意味し、もう一つは人間が多くのものに頼り、多くのものを必要としていることを意味している。そしてこの流刑の旅は、魂の世界、母の胎内、子供時代、老年時代、墓場、死後の世界、復活、審判と続く、長い試練の道を意味する。


二つの魔法の鍵とはアッラーへの信仰とあの世への信仰である。その力によって死は、信仰を持つ人々にとってはこの世という監獄から天国の庭へ、慈悲深いお方への御前へと連れて行く従順な馬となるのである。ブラク(預言者の天空の飛行の際預言者が乗られた乗り物)の形をすらもつのである。死の真実を理解した完全な人々が死を愛したのはまさにその為である。まだ死が訪れていないうちから死を待ちわびていたのだ。旅立ちと別離、死、絞首台である時の流れは、この信仰の力によって、荘厳さと偉大さをもたれるお方の、鮮やかな奇跡、力、慈悲深さを目の当たりにできる機会となる。太陽の光を反射していた鏡が新しくなり、劇場の覆いが取り替えられることは、更に素晴らしい様子を作り出すのである。


二つの薬のうち一つめは、忍耐と信頼である。創造主の力にすがり、法に従うことである。『あれ、と御命じになれば、即ちある』*お方の命に、弱さの証明と共に従う人が恐れるべきものがあるだろうか。なぜならその人はこの上ない災難に直面した時**「アッラー御許(みもと)に私たちは帰ります。」といい、精神的安らぎのうちに慈愛深い神に従うのだ。そう、神の存在を知る者は、その弱さと、神への畏怖がゆえに喜びを味わうのである。畏怖には喜びがひそむ。もし、1歳の子供と対等なやり取りができたとしたら、その子供は「最も気にいっていて、気持ちのいい状態というのは何か。」という問いにこのように答えただろう。「自分の弱さ、無力さを理解し、母に叱られることを恐れながらもやはり母の温かい胸にすがっている時。」


 それでも、母の慈愛というのは神の慈愛の顕現の反映のようなものに過ぎない。だから完成された人々はその弱さと神への畏怖によって非常な喜びを味わうのである。自分の力を強く否定し、アッラーに弱さをもっておすがりしたのだ。自らの無力さ、弱さが、彼の為の仲裁の役目を果たすのである。


もう一つの薬とは、感謝と確信をもって乞い願い、祈り、糧を与えられるお方を信頼することである。この地上全てを巨大な恵みの食卓とされ、春の季節を花束とされ、その食卓に添えられた、この上なく気前のよいお方の客人にとって、多くのものを必要としているということがなぜ苦しみでありえようか。多くのものを必要とし、窮乏しているという事実はむしろ、心地のよい希望となるのである。だから、完成された人たちは、その困窮さを誇りに感じたのだ。(決して誤解はしないでほしい。アッラーに対して窮乏していて、乞い願うという意味である。自分の貧しさを人々に見せつけて物乞いをするという意味では決してない。)


そして切符、手形とは、礼拝をはじめとした義務を果たすことであり、罪から遠ざかることである。魂の世界について感じたり、何かを見たりすることができる人たちや、神の真実を自ら実践することによって理解する、心眼をもつ人々はみな一致して、この長く暗い道程において、その糧や明かり、乗り物をただクルアーンに従い、禁じられたことから遠ざかることによってのみ手にするのだ。科学や哲学、芸術、知恵といったものはその道程において価値を持たない。こういったものの輝きは、墓場の入り口までなのである。


わが怠惰な魂よ。五回の礼拝を行うこと、罪から遠ざかっていることはどれほど容易でらくなことであろうか。そしてそこから生み出されるもの、その効果がどれほど重大で大きいものであるか、あなたにも知性が残っているのであれば理解できるだろう。そして、アッラーに背き快楽に走ることをあなたにそそのかす悪魔に、この男に、こういってやりなさい。


「もし死をなくすことができ、この世からの別離、無力さ、窮乏といったものから人間を救うことができ、墓の扉を閉じることができるというのならそのやり方をいってみなさい。私も聞いてあげよう。そうでなければ黙りなさい。クルアーンがこの世界を説いているのをのを聞こう。その光で輝こう。その庇護のうちに行動しよう。その言葉を常に唱えていよう。クルアーンは創造主からもたらされた真実であり、それは真実を語り、真実を示しているのである。


アッラーよ、我々の心を信仰とクルアーンの光で輝かせてください


アッラーよ、あなたへの窮乏によって我々を豊かにしてください。あなたに対して窮乏を感じないことによって我々を貧窮させないでください。

* 聖クルアーン ヤー・スィーン章36/82より

**聖クルアーン 雌牛章(アル・バカラ)2/156より