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汝自身を知る

 

 

自己自身を知ると言う事はただ体の諸器官、欲望、怒りや憤慨、能力等々を知るということではない。また、体と魂(心)で体系的に、神へのこまやかな感情や意識、感覚、意欲等を知るということだけでもない。自己自身を知るということはこれらと共に、さらに毎日、自分自身を違った角度から新たに学ぶこと、そして、常に自分自身を新しく認識しなおすことである。なぜなら、人間は一枚の写真のように、1つの角度から確定されるものでもなければ確定する事もできない。

 

それはちょうど、育ちつつある一本の木のように、一瞬一瞬新しい形をつくり、変化していく。同様に、自分自身の魂もそれぞれの理解力や意識とにおいて、さまざまな角度から、自分自身と関連する事柄を観察し解釈する事が必要となる。(たとえば、)「今日は否定的なよくない出来事が私の身に起こったが、原因は多分この私の間違いからだと思う。または、ある行動によって、このようなアッラーのめぐみに到達した。それが私にふさわしくなくても、真理なるお方のご承諾にかなっているため、可能となった。」というように考えながら、いつでも、自分自身にレンズを当てて見る必要がある。が、ここで、ある点に留意しておかなくてはならない。それは、あなた方がいろいろと考えたときにも、(この瞬間の)私の言葉は上述したように、1つの角度から捉えられたものであり、この状態は刻々と変化し、一秒前、一秒後は違ってくるということである。


人はこの方向へ近づくなら、その本質を守りぬくことができる。アッラーの御力と御意と御望みそして彼の御知識との関連において自己をとらえることができる。さよう、人というものは常に変化し、常に違った形で表れる大変複雑な本のようなものである。そのため、それを常に読みつづける必要に迫られる。


クルアーンにはこれまで述べてきた事象と明らかに矛盾しているように見られる一節がある。「ワ ラータクーヌー カッラズィーナ ナスルッラーハ ファアンサーフム アンフサフム:あなたがたは、アッラーを忘れた者のようであってはならない。かれは、かれら自身の魂を忘れさせたのである。(59章19節)」注意してみるなら、この節では「アッラーを忘れた者」とまず始めに仰せられる。それから、こうする者たちに、彼ら自身の魂を忘れさせる事を1つの罰として与えたと、その後に続ける。そうであるなら、このように申し上げられよう。「自己自身を知る者はアッラーを知る。しかし、アッラーを忘れる者にアッラーは忘れる者自身を忘れさせる。」以上のように、この点での矛盾は起こらない。


であるとすれば、アッラーを忘れず、あらゆることをアッラーに結びつけた時、自己自身は一冊の本のような形となるであろう。23の言葉(ある本の1句)を思い出してみよう。先人が「イーマーン(信仰)は一種の光である」と述べられた。さよう、信仰が明らかに顕れる時、(光によって)宇宙のすべてを読みとる可能性が生じ、客観的世界と主体的自己をより深く違った角度から学ぶことが可能となる。客観的世界を学び、熟慮する時に、主体的自己は一つのルーペまたはレンズの役割を果たす。この点から、アッラーの存在をまず始めに認識し受け入れる事、そしてアッラーへのイーマーン(信仰)を持つことは大変重要である。これを受け入れる事によって、あなた方は、主体としても客体としても自由に行き交うことができる。すべてのことを一冊の本のように読み、展示品のように眺めることだろう。

 

逆に、事象をアッラーに帰さない場合、すべての事は暗黒へと埋葬される。23の言葉で述べられているように「ある橋の上、暗闇の中であたりは遺体だらけ、野獣たちに取り囲まれている状況下でも、ひとたび一切をアッラーへの信仰に帰し、彼を感じるなら、まるで電気のスイッチに触れたように、怖がっていた今までの状態が瞬時に一変する。つまり、まず始めにアッラーを知ることは人間の主体的自己と客体的自己をより深く理解するために大いなる助けとなりえ、重要だということである。


今、もし、私がアッラーを信じるならそれら受け入れていると言う事であり、私、私の行動、私が今日なした事、私が明日行なうこと、そして私の臨終、さらに審判の日に私に起こる事こと等あらゆる事は彼の御知識の範囲内に修められている。「ワ ラー ユヒートゥナ ビ シャイイン ミン イルミヒー(かれの御意に適ったことの外、かれらはかれの御知識に就いて、何も会得するところはないのである。)」あなた方は彼の知識以外にはなにも取り囲むことができない。なぜなら彼はすべてを取り囲む(ムヒート)お方であられ、ムヒートはムハート(取り囲まれる者)にはなれない。もしあなたが彼の御知識を取り囲んだと言うのであれば、取り囲む者(ムヒート)が、取り囲まれる者(ムハート)であるとなり、これは存在させ給うお方の御名において不可能である。


このように熟慮し、事象を捉えなおすと、お茶を飲むというような簡単な行動においても、彼の御望みと御意にかなうことなしに、何もなしえないと理解できる。


さらにここには、一種の循環(サイクル)があるように見える。つまり、一方で、私達自身を学び、自己と言うレンズで存在そのものを眺めると、巨大なリンクした形として、アッラーの存在、アッラーの唯一性の証拠や証言者の存在を見出す。他方、その証言者達の忠実なる証言、事象の説明は、アッラーを信じるということに関連してくる事が見出させる。神の知(信仰の知)ではこれを循環と呼ぶ。つまり、一定の方向に、AがBの原因となり、同時にBがAの原因となるということである。「どちらが先に生まれたか?卵が先か、雌鳥が先か?」など他の例もあげられる。基本的には、神学者たちはこの循環の問題を廃したようだ。しかし、ここには、ある一定の方向に一種の循環が起こっている。

 

AがBを支え、BがAを支えている。あなた方の熱意ある努力とあなた方の学ぶという決意がアッラーを心で知る((注1:マアリフェト)という真知を増大させる。さらに、アッラーをよりよく知ることは、あなた方が、あなた方自身をより明確に理解する事へとつながる。そして宿命についてもよりよく知り、あなた方を襲う災難の意味もより深く理解するようになり、恩寵もより細やかに感じられるようになる。さらに、最も大切な事「アッラーへの感謝」の気持ちがわきあがり、とどまることなく、あふれ出るであろう。悪害として、あなた方の前に現れる出来事に対しても、より良い方法で解釈をする事が可能になる。聖メヴラーナが述べられたように、「災難は、ぼろぼろの衣服を身に纏いあなた方のところへやってきます。そのふるまいはその身体にふさわしく、美しく見えます。なぜあなた方はぼろぼろの衣服に注目するのでしょうか?なかのふるまいや身体をごらんになればよろしいのに、」と。このような角度から出来事を捉える事も可能である。


さよう、主体的に、客体的に両面から学ぶ事によって、人間は自己自身を知ることができると言う意味であり、基本的には、これはアッラーを知る一つの方法でもある。アインシュタインの予感どおり、遥か遥か彼方まで開かれているのだ。遠大に開かれうる者達は、狭い環境においても、さまざまな判断力で、現在の方法を乗り越え、それぞれの人生の記録により、本質を知り得る。それぞれの人生の記録とは、人の態度、行動、振る舞い、信仰、価値観、解釈、見方、変換等すべてを含む。このように、人生の記録によって、人間はそれぞれ一枚の絵画を織り成す。心眼を真実に向け、注視すると、遥か深遠なるもの、もう一つの世界、天国地獄、そして、アルシュ(天の一番高いところ)にイスラーフィール(最後の審判を司る天使)の偉大な像が見えてくる。


さよう、人はそれぞれの能力に応じて(アッラーのみがご存知であられるが)これらすべてを見ることが可能となる。


注1:マアリフェトは「しもべが何時もアッラーのお与えになった恵みに感謝し、無力である事を知り、若く強い時にも本当は弱い存在であると知ること」により手に入れられる。真のマアリフェトとは、アッラーを心から愛し、想うこと、アッラー以外のすべてから望みを絶つ事である。

この世で最も大切な事はマアリフェト(アッラーをよく知ること)である。

 

 

 

 


 

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