イスラームの信仰:六信

 

イスラームの信仰 六信について、さらに詳しくご紹介します。

 
1.アッラーを信じること

 

アッラーを信じることとは、アッラーの存在、唯一性、創造主性、全ての崇高な特性がアッラーに属すること、アッラーが完全無欠であられること、何ものをも必要とされず、無比のお方であられることを知り、それを信じることです。

この信仰の真髄は「アッラーの外に神はなし(アラビア語では、ラー・イラーハ・イッラッラー)」という言葉で表現されます。この言葉は「タウヒードの言葉」と呼ばれています。タウヒードとはアラビア語で、言葉としては 「一つにする」ことを意味しますが、宗教概念としては、アッラーの唯一性を意味します。アッラーの唯一性を信じると、必然的にアッラーについて次のことも信じることになります。
神には始まりも終わりも考えられません。また神と、人間を含むすべての被造物の間には類似はありません。神は産みも産まれもせず、いかなる欠陥もなく、すべてにおいて完全であられます。神は死せるものではなく生きておられます。その力は全てに及び、力の及ばないものは何一つありません。このことについては、クルアーンに次のような章句があります。「(ムハンマドよ)言え、かれはアッラー、唯一な る御方であられる。アッラーは、自存され、産みも産まれもなさらず、彼に比べうる、何も のもない」(クルアーン第112章1-4節)
アッラーは、すべてをご存知です。聞かれ、見られますが、その聴視のありかたは私たちのそれと同じではありません。万事を望まれるままに行われ、その御心の実現を妨げることは誰にもできません。「なれ」と命じればすべてが実現し、「なくなれ」と命じればすべてがその瞬間に消え失せます。宇宙の全ての存在を無から創造されたのはアッラーであられます。生かすのも死なすのも、生育に必要なすべてのものを与えてくださっているのもアッラーであられます。
アッラーはなにものをも必要とされず、自存されます。しかし他のすべてのものはそのお方を必要とします。アッラーは特定の場所、方向、時間によって限定されることなく、超越的に存在されます。その存在や属性は比類なく、いかなるものとも共有されません。アッラーは唯一なる神であられるので、その同類が存在すると考えることは最大の罪であり、許されることのない罪となります。それ以外の罪については、神はお望みのままに許されます。アッラー以外のものには、たとえ部分的であれ神性はありえません。
信者と神の間には、媒介者としていかなるものも入ることはできません。聖職者という階級や集団はイスラームに存在しません。預言者でさえ神と信者の間に入ることは許されません。預言者は神の代理ではありません。彼らはただ神から授かった啓示を人間に伝える役割を果たしたに過ぎません。この伝達者としての使命以外には他の人間との違いはないのです。彼らも他の人間と同様に神に対して責任を負っています。人間は、神のお喜びとお許しを得るために、無媒介に直接的に神を崇拝し、神に祈りを捧げるべきです。
また、アッラーへの信仰は、比類なきお方アッラーへの崇拝行為を行うこと、アッラーを愛すること、ただアッラーから求めること、アッラーにのみ助けを願うこと、アッラーを信頼し、どのような点においてもアッラーと同等に何かを見なさないこと、アッラー以外に崇拝するべき対象は存在しないということを知り、それを表明することを必要とします。さらに、アッラーが命じられたことに喜んで従い、禁じられたことを避け、アッラーが愛されるものに愛情を示すこと、アッラーが愛されないものから顔を背けること、アッラーが下された規則に従うこと、それを実行すること、預言者の示された道を歩むことなどもまた、アッラーへの信仰が要求する事柄です。単に理論的にアッラーを信じているというのでは不十分で、この信条を行動で示し、支えることが必要なのです。

 

2.天使たちの存在を信じること

 

信仰の二番目の条件は、天使たちの存在を信じることです。天使とは、アッラーが光から創造された存在です。天使たちには性別はありません。食事をとることも、眠ることも、疲れることも、病気になることもありません。アッラーが望まれる限り生存します。地にも、天にも、どこにでも存在しており、天使たちはアッラーの命令に従い、アッラーに逆らうことはありません。「かれらはアッラーの命じられたことに違犯せず、言い付けられた事を実行する」(クルアーン第66章6節)

天使たちは、その任務によって 三つに分類されます。
第一のグループ: 常に「アッラーの外に神はなし」と唱えたり、アッラーにはいかなる欠点もないことを唱念したりするグループ。
第二のグループ: 「ムダッビラート」といわれるもので、この世界の秩序に関する任務に携わっているグループ。
第三のグループ:預言者たちにアッラーの意を云える任務を帯びていたグループ。預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平安がありますように)にアッラーの命令と禁止事項を伝えたのは、ジブリールという名の天使でした。

 

天使たちは目に見えるか

天使たちが存在し、どこにでもいるのにもかかわらず、私たちは彼らを見ることができません。なぜなら彼らは霊的な存在であり、私たちの目は、彼らを見ることができるようには創られていないからです。私たちは天使のみならず、疑いなく存在する多くのものを見ることができずにいます。自分たちの精神も見ることはできません、しかしその存在は信じているのです。存在する全てのものが目に見える必要はありません。何かを見ることができないからと言って、その存在を否定することはできず、天使たちの存在はクルアーンが伝えているものであり、預言者たちは彼らを見たのです。

 

 

3.諸啓典を信じること

 

信仰の条件の一つが、アッラーの諸書を信じることです。
アッラーはしもべたちに命令や禁止事項を、預言者たちを介して下された啓示で教えられています。それらの啓示が形成されている書物は啓典と呼ばれています。例えば、預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平安がありますように)に送られた啓示が収集された書はクルアーンと呼ばれています。ユダヤ教の預言者ムーサー(モーゼ。彼の上に平安がありますように)のトーラー(旧約聖書)や、キリスト教の預言者であるイーサー(イエス。彼の上に平安がありますように)のインジール(福音書)も啓典と呼ばれています。

イスラーム教徒は、自分たちの経典であるクルアーンと一神教のユダヤ教とキリスト教のそれらの啓典にある啓示がアッラーによって送られたお言葉であると信じなければなりません。しかし、クルアーン以外の啓典の内容については、疑問もあります。なぜならば、旧約聖書が預言者ムーサー(彼の上に平安がありますように)の生前中に集められず、死後1000年も経ってから形成されたので、啓示の一部が失われたり、一部が書き換えられたりすることも十分考えられるからです。新約聖書も、預言者イーサー(彼の上に平安がありますように)の300年の後も編成され続け、しかも、啓典がひとつだけではなく、それぞれが異なったり、相反したりする部分を沢山含む4つの異なる啓典(マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書)があるため、すべてが啓示に基づくものであるとは言い切れません。イスラーム教徒は、現在ユダヤ教徒が持っているトーラー、あるいはキリスト教徒が持っている聖書より、それらが実際にアッラーから預言者へと送られた時のままの啓示を信じるのです。また、イスラーム教徒は、現在のトーラーや聖書にも啓示の一部が存在するという可能性があるため、それら啓典を全面的には否定しません。

 

 
 
4.預言者たちを信じること

 

イスラーム教徒は、預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平安がありますように)のみならず、彼以前の諸預言者を信じます。例えば、イスラーム教徒は、預言者ムーサー(旧約聖書のモーゼ。彼の上に平安がありますように)や、預言者イーサー(イエス。彼の上に平安がありますように)は、アッラーによって遣わされた使徒として信じています。イーサーは、新約聖書のイエスですが、キリスト教においては三位一体のひとつで、神として信じられています。イスラームによれば、イエスは、神あるいは神を受肉した人間ではなく、あくまでもアッラーによって預言者として遣わされた人間です。預言者の確かな数は知られていませんが、歴史の中で各地域、各民族に少なくとも一人の預言者が送られたとされています。クルアーンにおいては、29人の名前が登場しています。そのうちの4人が預言者であったか否かについては議論があります。預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平安がありますように)からの伝承によれば、歴史上地上へ送られた預言者は、12万4千人とされています。したがって、その名前が知られている預言者の数は25名ですが、名前が知られていない預言者の数は、実際に多いということです。

預言者とは、アッラーが人々に正しい道を示す為に任務を与えられた、選ばれた人々のことです。つまり預言者は、アッラーと人間との間の使者であり、アッラーのご命令や禁じられたことを、人々に伝える役割を担っているのです。

預言者たちの一部には啓典が下されました。彼らは一般的に使徒と呼ばれています。啓典が下されなかった預言者もいますが、彼らは自分より以前の預言者に下された啓典に従い、宗教的実践を行い布教しました。

人間は預言者を必要とします。なぜなら人は、自分の知識や能力、知恵だけで全てを知ることはできないからです。しかしアッラーを、自分の知恵や能力で見つけることは可能です。なぜならこの世界、そしてそこに存在する被造物の繊細さ、調和、完壁な配置などを追及すれば、それらが勝手に出来上がるものではなく、創造主が存在することを理解できるからです。この世界では何もかもが完全に正しい位置に配置されており、全てのものが自らの力でそれらを行うことは不可能といえるでしょう。

しかし一方で、その創造主にどのような崇拝行為を行えばいいのか、何を命じられて何を禁じられているのか、ということを知ることは出来ません。これらを私たちに教えるのが預言者たちなのです。それゆえ、アッラーは、預言者を遣われなかった人々には罰を与えられません。クルアーンにおいては、それに関して次のような章句があります。「われは(警告のため)一人の使徒を遣わさない限り決して懲罰を下さない」(クルアーン第17章14節)

アッラーが預言者を遣わされる理由の一つは、最後の審判の日、人々が「アッラーよ、私たちはどうやって崇拝すればよいのか知らなかったのです」と弁解することのないようにされたためです。それに関するクルアーンの章句は、次のようです。
「使徒たちに吉報と警告を齋せたのは、かれらの(遣わされた)後、人々にアッラーに対する論争がないようにするためである。本当にアッラーは、抜かりない立証者であられる」(クルアーン第4章165節)

 

5.運命(カダル・カダー)を信じること

 

信仰の条件のもう一つは運命(カダル・カダー)を信じることです。
イスラームの運命論について、アッラーの予定(カダル)とアッラーの決定(カダー)を意味する二つの言葉が並べて使われています。カダルは、アッラーがいつでも、起こるであろうことを、それがいつ、どこでどのように起こるのかに至るまでご存知であられることを指します。たとえば、人命や動物の命の長さ、そして、いつ、どこでどのような状態で死ぬかということはアッラーによって知られ、そういうふうに決められています。それは、カダルと言います。カダーは、アッラーが定められた事は、そのときが来ると定められた形で実現することを指します。例えば、上述の例の動物が、神のその予定通りに死ぬことはカダーと呼ばれます。

言い換えると、カダルはアッラーの法や規範であり、カダーとは物事がその法に従って起こることを言うのです。「全てを定められ、創造されるのはアッラーなのだ」とムスリムは、信じます。なぜならアッラー以外に創造者はいないからです。アッラーは起こったこと、これから起こること全てをご存知であられます。

時が来ると全てがアッラーが定められた通りに実現します。それを外れるものは一切ありません。クルアーンではこの件に関して次のように記されています。
「地上において起こる災危も、またあなたがたの身の上に下るものも、一つとしてわれがそれを授ける前に、書冊の中に記されていないものはない。それはアッラーにおいては、容易な業である」(クルアーン第57章22節)
「言ってやるがいい。『アッラーが、わたしたちに定められる(運命の)外には、何もわたしたちにふりかからない。かれは、わたしたちの守護者であられる。信者たちはアッラーを信頼しなければならない』」

(クルアーン第9章51節)

 

 
 
 
6.来世を信じること

 

信仰の六つの基本(六信)の最後の基本は、来世の存在、いわゆる死後の復活を信じることです。
イスラームにおける来世信仰は、この世界の終焉とその後に実現するとされている一連の出来事を信じることと関係があります。たとえば、イスラームによる来世の実現のためには、この世界がなくなることが必要なのです。つまり、来世は、現世が終わってから(世界終末)始まります。個人の寿命が尽きることは、正確な意味では「あの世へ行った」ことではないのです。

イスラームは人が現世での生を継続させるためには肉体と魂を必要としています。しかし生命とは、単にこの世での生によって成り立っているとは見なしていません。つまり生命の始点を、現世での生の始点である誕生であるとは見なしておらず、同様に現世での生の終わりである死をも、生命の終わりとは見なさないのです。従ってイスラームでは生命は現世での生よりも前にも存在し、現世での生の後にも継続していくものなのです。

「あなたがたの主が、アーダムの子孫の腰からかれらの子孫を取り出され、かれらを自らの証人となされた時を思え。その時アッラーは『われは、あなたがたの主ではないか』と仰せられた。かれらは、『はい、わたしたちは証言いたします』と申し上げ た。」(クルアーン第7章172節)

 

この状況とアッラーの人間とのその対話がどのようなものであったかという点にはついてそれほど詳しく述べられていないとしても、この段階において魂が存在していたこと、そして生命での生のようではなくても、ある種の生のレベルが存在していることが読み取れます。この段階では肉体はまだ魂とは一緒にはいません。肉体と魂の一体化は、胎児が母胎に宿り、そこで成長した後で実現します。魂と共に誕生してくる人は、アッラーによって定められた一定の期間を生きた後、死んでいきます。肉体と魂が離れるこの現象を死と呼ぶのです。死後、肉体は焼かれ、あるいは土に埋められ、その形を失います。しかし魂は存在し続けています。魂の存在が続けられているこの段階を「中間の世界」といいます。中間の世界にいる人は、現世とも完全に結びつきを断ってはいません。なぜなら人は肉体的に現世から離れたとしても魂は存在しており、異なる次元においてその存在を継続させているからです。

人が生まれ、生き、死んでいくという形で続けられる現世そのものの寿命も、いつか尽きる時がきます。これを「世界の終末」と呼びます。この世が終末を迎えると、全ては無となります。アッラー以外、生命を持つものは何も残りません。

 

 

死後の復活

世界はこうして、何もない状態で一定の期間を過ごします。その後、被造物は蘇り、一堂に集められます。これを死後の復活と呼びます。この復活において魂と肉体は再び一緒になります。つまり、現世での生で形状を変化させた肉体と、世界の終末の日に死んだ魂とが一緒に復活させられるのです。

その後、召集が行なわれます。クルアーンは次のように説き明かしています。
「それは人が一斉に召集される日であり、立証されるべき日である。」(クルアーン第11章103節)

生命を持ち、死を味わった全ての被造物が一箇所に集められます。この場所がどこであるかということについては詳細な知識は存在しません。しかしこの召集が実現するということは、信じるべきものの一つなのです。それに続き、清算、尋問が行なわれます。クルアーンでは次のように説かれています。
「一微塵の重さでも、善を行った者はそれを見る。一微塵の重さでも、悪を 行った者はそれを見る。」(クルアーン第99章7-8節)
責任を負うあらゆ る被造物の善行と悪行が量られ、清算され、比較されます。ここではアッラーに対しての、同時に生命を持つ被造物たちに対しての責任を果たしたかどうかが明らかにされます。

清算と勘定が行なわれるこの日は、報奨と懲罰の日でもあります。人がこの世で行なった些少な善行でも放っておかれることはありません。同時にほんのわずかな悪でも見逃されることはありません。アッラーを信じ、そのご命令に従い、禁じられたものを避けた人々はその日、アッラーによって報奨を与えられるのです。しかしもし信仰していないのであれば永遠の地獄によって罰が与えられます。信仰を持ってはいたものの善行の方が悪行よりも少なければ、悪行と責任を果たさなかったことの罰が一定期間与えられ、その後、善行への報奨として永遠に天国にいるのです。

イスラーム教徒は、死後の復活を信じます。信仰者は、「私たちを無から創造されたアッラーは、私たちを死後復活させられるのに十分な力を持っておられる」と信じています。死後復活させることは、無から創造することよりもより容易です。クルアーンでは次のように記されています。「かれこそは先ず創造を始め、それからそれを繰り返されるお方。それはかれにとってとて壱た易いことである。」(クルアーン第30章27節)