top of page

真の商業とは

 

 

 

この時世、誠実さと正義は稀少なものとなり、自分だけが損するものとなった。誠実さと正義は自分には厳しくも、だからこそ心の糧になるものだが、しかし現在は、自我を肥大化し、心をひどく扱う時代だ。簡単な方法で得た不正な利益や、他人の窮状(きゅうじょう)を省(かえり)みずに自己の利益だけを考えることが、この時代の最大の難点である。

新聞や雑誌、ラジオ、テレビ、電話、インターネットなどによって、チャンスと簡単な儲(もう)けが、常に才能のアクロバットように輝かしく紹介されていたら、正直に稼ぐことや、正義を持って生きる事は面白くないものとされてしまう。

 

正義感は、真の勇士の資本なのである。

イマーム=アザム様は学問の他に商業にも努め、預言者様(彼の上に平安あれ)の役目であるこの仕事によってをアッラーより恵みを得た方である。

ある日、一人の夫人が高級な衣服を持ってきて、これを売りたいと申し出た。偉大なイマームがその売値を聞くと、夫人は「100ディルハムです」と答えた。

この価を、このような服に対して安すぎると考えたイマームが

「この服はもっとするでしょう。いくらにしたいか言ってごらんなさい」

ともう一度訊ねると、夫人は

「それなら200ディルハムにします」

と答えた。

偉大なイマームはまだ納得できず、この服の本当の価値をもう一度聞いた。とうとう夫人は服の値段を400ディルハムまで上げた。なんと奇妙な光景だろうか。買い手が価格を値切るのではなく、ずっと値上げしようとするとは。偉大なイマームはそれでもいぶかしがっていた。

夫人はこれに気づくと、自分が皮肉られているのかと思い、思わず「いくらでもいいですからお持ち下さい。

私はとにかくこの服を売らなくてはいけないんです」と言った。イマームは、

「結局、私たちにはこの服の値段がわかりませんでした。価値を分かる人に聞くのが一番でしょう」と言った。

一人の仕立て屋が呼ばれた。彼はこの職業の達人だ。その彼が服を見るなり目を輝かせ、生地に触ると、さらに気に入った様子になった。

「この服は、500ディルハムはします。これ以上は買い手に利益はもたらしませんが、これより少なくては売り手に失礼でしょう」

仕立て屋は言った。服の本当の価値を知ることができ、偉大なイマームは、安らかな気持でこの服を購入した。

その周囲でこの経緯を見ていた人々も、真の商業を学んだ形となった。つまり、売り手が不当に扱われることもなく、買い手が正義を持って対応するということを。

 

「教訓」と言う名の道しるべを、困難な今この時代にこそ従わなくては、vakumのように人間に近づいて来る暗闇を、助長させることにはならないだろうか。この時代、人間性の歩みが誠実さや正義の味方でなければ、人間関係や買物の姿はどうなってしまうのか想像に難くない。購入しようとする商品の値段を4倍に上げても納得しなかった賢者(けんじゃ)は、今日の人間性に大きな教訓を与えてくれる。

 

「最後の時代の現代人よ、自らの利益は見逃さず、気楽で無気力な人々よ! あなた方は不当な利益のためにずる賢く立ち回り、モノをその価値よりもひどく安く買い、とても高く売ることに貪欲だ。他人の不幸や必要としているものや無意識でいることなどから、どうにか利益を得ようとして必死だ。獰猛(どうもう)な動物のように、獲物を得たら得意になっている。これらの全ては火のようなもので、あなた達に一時的な富を与えるが、すべてを連れ去ってしまう災いである。相手の状態を理解して助けることと、必要性をチャンスと思い手にしたものを有りもしない値で買う事は、全く別の話である。良心的な人は、モノの値段がいくらであろうとも、借りのある相手の損から利益を得ようとはしない。彼はモノを買うならば正しい値段で買うので、買ったものからもアッラーの恵みを

受けることができる。しかも良心的な人間は、このような状況で、必要であればモノの価値よりも少し高く買い、困難な状況にある同胞の肩の荷を少しでも軽くするのである。なぜなら良心的な人は知っているのだ、物理的には貧しくなってもその分、精神的には豊かになれることを。」

 

M. Said Turkoglu

bottom of page