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タウヒード(神の唯一性)とシルク(神と同列に他の何かを置くこと)のバランス

 

 

時々、自分にもどうにもならないことですが、自分の意志に反してあることが頭にひっかかり、「私達は無駄骨をおっているのではないだろうか?」と独り言を呟きます。


私はイーマーン(信仰)とクルアーンに奉仕することを人生の目的としている方々に対しずっと希望があると申し続けて参りました。私の身近にいらっしゃる方々から、はるか彼方、遠い地域で活躍なさっている方々に、いつの日か、成人、子どもを問わず、必ずや預言者(彼に平安と祝福あれ、以下S)の慣習(スンナ)に賛同し、みなそろって預言者(S)に従うだろうと確信を持って伝えてきました。預言者(S)の慣習(スンナ)を知った方々は、息絶えるまで、燃え盛る情熱と共に、生きぬくであろうこと、そして預言者(S)に従い、聖典に明示された真髄を守りぬくであろうことを(申し上げてきました)・・・

 

しかしながら、心にあることが引っかかり、形のみのイスラームを生き、彼の魂にも近づくことができず、その本質に達する事のできない多くの方々をまわりで見る度に、私の希望の灯火も燃え尽きてしまうような気がしています。このテーマに関して行われた試みが何の効果も、益も見出せないと知るたびに、私は打ちひしがれ、「もしかしたら、主はディーン(宗教)へ奉仕する事を私達にはお望みではあられないのではなかろうか?」と自問自答いたします。彼のディーンへ奉仕する事は、恐らく私たちにとって、妥当ではないのかもしれませんが、それに奉仕するためにふさわしくなるよう努める事、そして、それを守ることが私たちの義務(役目)です。そうなのです、些細に思われるような出来事が、実は私には気がかりなのです。それが「腐敗の始まり」と感じるからです。


何時も毎日のように機会があれば、何度でも申し上げて参りましたが、ここでもう一度繰り返したいと存じます。何方であれ、人が成し遂げ、勝ち得た成功の数々を、決して自分自身の力(手柄)とみなしてはいけません。これは、あきらかにシルク(多神崇拝、自分自身を信仰することも多神仰の一種)です。人がこれらを自分の手柄とすることは本来、自分自身と、成し遂げられ勝ち得られた事柄を、真の力から、つまりその力の根源から切り離す事を意味します。力の源から切り離されたものは、次に、自分自身の力を地面に苗木のように植え付けようとしますが、その地面をふき抜ける夏の強風は(真の力から切り離された)人間の力を成長させることはできません。それらはただ、「アッラー以外の何者も、権能も力も持ち給わぬ。」という強い夏風の威力によってのみ、背を伸ばし、成長する事ができます。

 

人間の力の介入が見せかけの表面的なものである場合、その夏風の力は、見せかけの人間の力から救い出してくれます。ですから、決して「私が」と思ってはなりません。「私がやった」と仰ってはいけません。アッラーの御力によって、成し遂げられた出来事の数々を、個々人が占有する事があってはなりません。もしこの種の考えが不意に頭に浮かんできてしまった時にはすぐにアッラーにお赦しをこいねがいましょう。「アッラーよ、あらゆる行動を起こし、成し遂げ給うのは貴方です。

 

私はそれを私自身が行ったかのように、一瞬考えました。一群の雲が私の脳裏を霞め、私はこのために(自分自身を崇拝する)シルクに走ってしまいました。もし貴方がこの事を多神崇拝と見なすとおっしゃるならば私は瞬く間にムシュリク(多神崇拝する輩)と化しました。どうか、私をお守り下さい。アッラーフンマ インニー アウーズ ビカ ミンアン ウシュリカ ビカ シャイアン ワ アナ アァラム ワ アスタグフィルカ ビマー ラー アァラム。(アッラーよ、知りつつ、多神崇拝に走ることから、私は貴方に加護を求めます。そして、私が知らずに行った多神崇拝に対して私は貴方に赦しをこいねがいます。)


そうです、成功の数々は、成し遂げられた事柄を個々人の自我自讃に結びつける事によって、壊され、曇らされ、色あせ、埃まみれになってしまう事を、私は存じております。そして、これらの事はたいてい(大魚を獲る)モリのように私の心に突き刺さり、「嗚呼、アッラーよ、何が語られ、何が為されているのでしょうか?」と、私は問いかけます。アッラーの唯一性を語り、その道を示す時に、もしや、シルクに入ってしまっているのではないかという不安を私は脳裏から取り去る事ができません。


アッラーの成功を各々の自我に関連付ける捉え方は、高貴なる天使達や、我らが長である預言者(S)そして偉大なアッラーの友たちの魂を悲しませているように私には感じられます。私のような未熟な者でさえも多神崇拝への不安のため一晩眠れぬ夜を過ごし、自我の欲望や利己主義的考え方、そして奢りと見せかけによって、不安や不快を感じます。そうであるなら、アッラーにすべてを任せ、アッラーの存在ゆえに自我を消滅させ、アッラーのうちにすべてを見、すべてを知る方々は、多神崇拝と不信仰を嫌うと同時に、成功を自我のものとする事にも嫌悪感を示します。アッラーの命に従い、アッラーへの愛と想いを持ちつづける者の嫌悪するふるまいが、(時がたったからといって、)よいとみなされることは決してありません。


現代を生きる方々は、通常の私たちの文化とあまりにも相違がみられる生き方をなさっていますので、これらの事をご説明する事は難しいですが、本来、トルコの民衆は歴史的にイスラーム文化やイスラーム信仰、イスラーム的な風習や慣習に逆行する事には抵抗を示してきた民です。しかしながら、現代の方々は同化することを望んでいるように私には見えます。中国やルーマニアや日本に行った方が、5-6ヶ月後に、ムスリムとしてのアイデンティティーを失い、中国の方や、ルーマニアの方そして日本の方に同化した形で、あなたの目の前にあらわれます。


しかしながら、とらわれを持つ人間は、正しい道を歩む自由な方々のようには、真にイスラームのために人々に尽くすことはできません。とらわれが多ければ多いほど、貴方がたの自由も、同じように貴方がたの手から逃げ去ってしまうのです。ムウミン(善き信仰者)はなにものにも囚われることがありません、いえ、囚われるべきではありません。飲食のように自然の必然的要求においても、囚われることはありません。食するのは、必要最低限生命を保つためにだけです。


家族は人間にとって、必要不可欠なものです。その家族の妻にとって夫、あるいは夫にとっての妻はなくてはならないかけがえのない人生の友です。来世への旅路の道連れです。時には道を歩み進む時私達はクッバ(ドーム型の屋根の石のように、うでをくみ、肩を寄せ合いながらお互いに頼りあいます。とは申しても、私達は家族中心主義者ではありません。もしそうであるなら、人は従属(とらわれ)によりアッラーの御望みになる行動や活動ができなくなることもあります。 


とらわれ(従属)とは本来、魂に生じる弱さを示すものです。それは心のむなしさです。人は実のところ妻や夫であったとしても、又母親や父親であったとしても、(これらの人間的関係には尊敬をはらいますが同時に)とらわれずに、それらから完全に自由であると示す事も必要です。『私はただアッラーのしもべです。』と言いきる事が必要です。アッラーのしもべは、アッラーのご命令と禁止の他、何事からも束縛を受ける事はありません。


これらはすべて私達のイスラーム文化が示すものです。その文化圏外にいらっしゃる時、他の文化に同化するのであれば、さらに相違のみられる場所においては、より多くの変化が生じる可能性があります。というのは、ある種の変化を生じた者は、他の面でも変化していきますから。同化と言うのは、特定の文化への束縛、その束縛に縛られる事を意味します。束縛される人々は自由ではなく、とらわれる人となるでしょう。アッラー以外の何かに捕われるのであれば、完璧なアッラーのしもべとなる事は不可能です。


これらの事は私が最近見聞きした事から、感じた事です。時々私の心臓に血が一脈一脈流れこむように、したたり、しみこんできます。時には針のように私の心を刺します。このような状態に、影響に、見真似に、光景に、アッラーを口先だけで唱える事に、心ない音に、そして音に現れる口論に、私は大変不安を抱いております。「みんな素晴らしい、わたしは取るに足らぬ者。みんなは小麦、わたしは麦藁。」と言う考えが、私の原則です。とは申し上げるものの、再び取るに足らぬ事柄にひっかかってしまうこともあります。もし私達がムスリムとして生きているとするならば、アッラーの御望みになられる生き方(イスラームの生き方)を貫くべきだと私は考えます。


そうです。「あなたがたの財産と子女とは一つの試みであり」クルアーン8章28節


この世で、この試みに負けて失う母親達や父親達、そして子女達がみられます。一方で、勝ち得る母親達や父親達、そして子女達がいらっしゃいます。試みに勝ち得る集団、損失する集団、又勝ち得るムジャーヒド(神の道で奮闘努力する者)、損失するムジャーヒド、勝ち得るムハージル(神の道を歩むべく移住する者)、損失するムハージルがいらっしゃいます。


1つ1つがアッラーからの試みです。変化について申し上げるなら、もし私達が変化するとするならば、精神世界の階梯を昇っていくたびにおいて、向上する方々のように変わるべきでしょう。私達にとってこれ以外、良き変化はありえません、いえ、あってはなりません。これ以外の変化は退行を意味します。クルアーンの中のご説明にあるように、「タザブズブ」(混乱)です。あちらこちら戻る事、変わる事はムナーフィク(偽善者)的な振る舞いです。人は一度変わるべきですが、その後は、変化のひとつひとつがアッラーに近づくために為されなければなりません。「私の首にかけられた首輪の持ち主はアッラーであられ、私はアッラーのみに固く結びつく彼のしもべです」と心に明記すべきでしょう。価値あることは、すべてこのことに(アッラーに固く結びつく、アッラーのしもべであること)に基づきます。


そうです、時は最終の時代。顕われることはそのしるし。お助け下さい、我が主よ!

 

 

 

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