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ハラールの糧で暮らすことと善行をなすことの関係

 

 

 

問:クルアーンの中で「あなたがた使徒たちよ、善い清いものを食べ、善い行いをしなさい。われはあなたがたのすることを熟知している」(信者たち章 23:51)と書かれています。ハラールの糧と善行の関係を説明してくださいますか?

 

答え:クルアーンとスンナはハラームとハラールの問題に非常に重きを置いています。このことをよく知るイスラーム学者は、イスラームとはハラールとハラームを知り(なぜなら個人的にも社会的にも良い正しい生活を送るにはこれが基本的な枠組みとなるからです)、それに従って生きることである、と集約しています。格言的に言えば、اَلدَّينُ اَلمْعُاَمَلَةُ「宗教とは、良き正しい行いである」と言えるでしょう。第二代カリフのウマル様はこのことの大切さを強調して次のように仰いました。「人が行った礼拝や断食だけに目を向けてはなりません。その人が正しいことを話しているか、預かりものがあればそれに対して誠実であるかどうか、そしてこの世的な事柄を行う際はハラールとハラームに注意しているかを見なければいけません」[1]。アッラーの視点において、礼拝や断食といった崇拝行為が非常に価値があり大いに称賛に値するのは確かです。その価値を退けることなど誰にもできはしません。しかしながら、飲食や衣類に気を使い、個人もしくは公衆の権利を侵さないよう慎み、正しい生活を送る-つまり、ハラールとハラームに細心の注意を払うこと-は真のムスリムであるために不可欠であり、実践においてそれを全うすることはそれぞれの崇拝行為を行うことより困難であると言えるかもしれません。ですからイスラームを完全に実践するためには、常にハラールにしがみつき、ハラールを求め、ハラームに対しては断固たる姿勢を貫き、禁じられた食物はたった一片でさえも喉を通させないようにしなければなりません。偉大なる方々のとった態度や行いを考察するなら、この事柄に関しても他のムスリムにとっての精神的導師であり、模範であられることがお分かりになるでしょう。この方々は非常に注意深く生き、また強い意志の力を行使していたがゆえに、アッラーは、本人たちが気づいていないときでさえ、この方々がハラームを食することからお守りになられました。知らず知らず禁じられたものに手を伸ばしかけたとき、己の手が震えたり鼓動が速まったことからそれがハラームであることを悟り、手を引っ込めたというような方々がいらっしゃるのです。同様に、気づかずにハラームの食物を口に入れたところ長い時間口の中に含んでいたにも関わらず一向に飲み込むことができなかった、という方もいらっしゃいます。もしそうした食物が胃に入ってしまった場合は即座に吐き戻そうとされました。最後の例に当てはまるものとして、食べたものが、召使が(イスラーム以前の時代に)占いをして稼いだお金で購入したものであると分かったときのアブー・バクル様、また飲んだ牛乳がザカートのラクダから搾乳したものであることを知ったときのウマル様の話があります。お二人は口に指を突っ込んで、胃の中に何も残らなくなるまですべてを吐き戻されました。ここから分かることは、ハラームの食物に対してここまで敏感さを示し、厳格な姿勢をとることは、真にムスリムとなる上で非常に重要だということです。

 

精神的向上のための最良手段

ハラールとハラームを遵守することは、アッラーの命令に従いかれに尊崇の念を示す上でも非常に重要です。さらには、ハラールを選び、ハラームから遠ざかるためになされるどんな努力も、その人がなす崇拝行為となります。誘惑に抗ったり不運に忍耐を持って耐えることは「受身」の崇拝行為だと見なされますが(自ら執り行っているわけではないのですが、持ちこたえようとしているために誠意ある崇拝行為になるのです)、ハラールを求める努力にも同じことが当てはまるのです。このことはクルアーンの「(一切の)善い言葉は、かれの許に登って行き、正しい行いはそれを高める」(創造者章 35:10)という節に結びつけることもできるでしょう。ここでアッラーを賛美し、称賛し、その偉大さを宣言する言葉、また預言者様(彼に祝福と平安あれ)に送る祝福祈願は、正しい行いによってのみアッラーのもとに到達しうることが述べられています。つまり、礼拝、ザカート、断食などの能動的なものであれ、ハラームに対して断固たる態度をとること、そしてこの件に関して真剣に努力することという受動的なものであれ、どちらの崇拝行為も、アッラーのもとに上昇する良い言葉にとっての翼のようなものです。ゆえに、この事柄は大したことではないと見なされるべきではなく、ハラールとハラームの問題は非常な繊細さを持って取り扱われるべきなのです。

そうです、食物に関して、清らかなものと汚れたものを区別することや清らかなものに汚れたものが混ざりこまないようにすること、この事柄について細心の注意を払うことは、崇拝行為を行ったかのような来世的報酬を獲得させてくれるのです。服用している薬の中に何があるか確認したり、スーパーで購入した製品の中に宗教的に許されていない原材料が入っているかどうかを調べたり、購入した肉がイスラーム法に則った方法で切られたものかどうかに注意し、稼いだものが完全にハラールであるように気をつけることは、人を精神面で向上させる手段となります。反対に、この件に関して意志の力を正当に働かせず、無頓着でのんきな態度をっていると、宗教的生活を麻痺させ、精神的機能をだめにし、人を破滅させる原因となってしまいます。

クルアーンでは、堕落しきった社会を描写する中でハラームな稼ぎを費やすことに触れています。「かれらは虚偽ばかりを聞き、禁じられたものを貪る」(食卓章5:42)。ハラームの稼ぎで得た栄養物はこの節の中で‘suht’という言葉で言及されていますが、それは人の血流を巡り、いくつかのハディースの中では人の崇拝行為や礼拝を受け入れられないものとしてしまうことが述べられています。例えば預言者様はこの点について次のように述べておられます。「ハラームの食物を食べるものは誰であれ、その者の礼拝は40夜受け入れられず、ドゥアーも40朝応えられないであろう。ハラーム(の食べ物)で養われたあらゆる肉(の一片)に相応しいのは地獄である。そしてたとえ一口であっても肉を養う(ことを知るべきである)」[2]。

 

腹に禁じられた食物がある者の苦い最後

ティルミズィーによって編纂されているある別のハディースによると、アブー・フライラはハラームの悪い影響について次のように伝えています。「預言者様は、身なりは埃にまみれ、髪は乱れて長旅を行っている旅人が手を挙げて『アッラーよ、アッラーよ!』と祈る様子について語られました。そしてこう仰いました。『この男が食べるものは禁じられたもの、飲むものは禁じられたもの、着るものも禁じられたものである。そのような状態でどうしてその祈りが受け入れられようか?』」[3]。別のハディースではこのように述べられています。ハラールの稼ぎを使って巡礼に訪れた者が「(ラッバイク)あなたの御意のまま。あなたの呼びかけに応じ私たちもここに参りました」と叫ぶと、天からの呼びかけが「ようこそ、あなたはなんて幸せなのでしょう。あなたの食べ物はハラール、乗り物はハラール、そしてあなたの巡礼は罪による汚れのない状態で受け入れられました」と応じます。一方でハラームの稼ぎで巡礼に訪れた者になされる天からの呼びかけは「御意などあり得ない、あなたは歓迎されていない。あなたの食べるものは禁じられたもの、稼ぎは禁じられたもの、そしてあなたの巡礼は受け入れられなかった」と応じるのです[4]。禁じられたものに浸りきった人の巡礼や祈りがどうして受け入れられるでしょうか。「主よ!あなたの命令に従ってここに参りました。私はあなたの御意に従います。ご慈悲と赦しを欲し、ご好意と寛大さを望んでおります」などとどうして言うことができるでしょうか。もし言ったとしてもその言葉は油で汚れた雑巾のようにそれでその人の顔がはたかれるだけではないでしょうか。ですから、ハラールの範疇で暮らし、合法なものを食することは、崇拝行為をアッラーの御許に至らせる上で非常に重要となってくるのです。質問に出てくる節も同様の事実を指し示しています。つまりハラールの糧で暮らすことは崇拝行為がアッラーに受け入れられることに大きな影響を及ぼすのです。

ここでもう一点指摘しておくことがあります。クルアーンの多くの節でアッラーはハラールの食べ物を食べるよう命じていることです。これは人が早いうちからハラールの追求に慣れようとする努力と関係があります。実に一つのハラームが別のハラームの誘因となるのと同様に、一つのハラールも他のハラールにつながる誘因となるのです。すべてのものは同類を求めるものであり、それによってお互いうまくいき、同様の性格を備え、仲間としてやっていくことができます。これは人に関しても当てはまります。我々の振る舞い、働き、行動は類似のものを追いかけます。同じ文脈でクルアーンにも「不浄な女は不浄な男に、また不浄な男は不浄な女に(相応しい)」(御光章 24:26)と指摘されています。

 これはまた次のように述べることもできるでしょう。清らかさ、善、健全さは他の良いものを呼び寄せます。同様に、汚れた、不快な、嫌なものは常に汚いものの誘因となります。ですからハラールを追求し、この件で努力を示すなら、「好循環」を形成し、時間とともにさらなる善、正しい行いへとつながっていくこととなり(悪循環と対照的に)、ひいてはこの方向で人生を送っていくことができるでしょう。ですからハラールとハラームの区別は最初から極めて明白でなければなりません。

 

ハラームの蔓延は言い訳とはならない

残念なことに、我々の時代、ハラールとハラームは混ざり合い、人々はこの点に関する繊細さを失ってきています。しかしながら、この問題を軽視することは全く人のためにならないという点を強調する必要があります。ベディウッザマン師は14番目の言葉の終わりで「『私は他の人と同じだ』と言ってはならない。皆があなたの助けとなってくれるのは墓の所までである。同じ災難だという慰めも来世では何の助けにもならない」と述べています。他の人たちがハラームのものを食べ、ハラームに目を向け、禁じられた話や無駄話に興じている様子にこの世で慰めを見出すかもしれませんが、墓のその向こうでは何の役にも立たないのです。他の人と同様の災難に遭っているからといって来世でその人の災難が軽減されるわけではありません。このような状況で信者がすべきは、一口一口の食べ物がどこから来ているのか、それがどこに行くのか、そしてそれによって引き起こされるかもしれない問題は何かをよく考えることです。この問題について無頓着でのんきな生活を送っていると来世でとんでもない問題を引き起こすことを忘れてはなりません。審判の日、人は大麦一粒の七分の一(ほどに微小なもの)についてまでも責任を問われます。格言風に「大麦一粒の七分の一」と言っていますが、クルアーンでも同じ真実について「ザッラ」(極小のもの)という言葉を使っています。「一微塵の重さでも、善を行った者はそれを見る。一微塵の重さでも、悪を行った者はそれを見る」(地震章99:7-8)。これによると、原子の重さほどに小さなものであっても善行を行った者はそれに相当するものを目にし、同様の大きさの悪事を行った者もそれに相当するものを確実に目にする、とのことです。個々人はすべてについての責任を問われます。口から飛び出た言葉、胃の中に収まった飲食物、耳で聞いた言葉、目を向けた光景・・・この世で足元に気をつけないと来世での報いはつらく、アッラーがお守りくださることを望みますが、容赦ないものとなります。ですからこの件について繊細さを失っている人は、飲食するもの、稼ぎ費やすものについて今一度熟考し、自分自身に改めて向き直る必要があります。

最後に一つ指摘しておきましょう。一部の人ののんきな態度だけを見て悲観的になる必要はありません。特に、上に立っている人々が慎重さを示し、注意深い人生を送ろうとしているのなら、その状態が周囲に伝播し、この注意深さや繊細さといったものは時間とともに社会全体で受け入れられるようになるでしょう。我々が信者としてイスラームの表面的な実践から脱却し、真剣に考え深く熟考しながら、すべてにおいてハラールとハラーム、美しさと醜さを区別する決意であるならば。

 

 

[1] アル=バイハキー「スナン・アル=クブラー」VI, 288; 「シュアブ」IV, 230, 326
[2] スユーティー「ジャミー・アル=アハディース」20/55、アリー・アル=ムッタキー「カンズ・アル=ウンマール」4/15
[3] 「サヒーフ・ムスリム」ザカート 65、ティルミズィー「スナン」タフスィール3
[4] タバラーニ「アル=ムジャム・アル=アウサト」5:251

 

 

 

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