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子供たちに来世をどのように説明するか

 

 

 

来世は知ることができないし、目にも見えないという人たちに、私は言いたい。かつて、知ることのできない、目にも見えない多くのものがあった。その時見られることがなかったもの、知られることがなかったものを、今では見ることができる。例えば、顕微鏡で見ることができる世界は、肉眼では見ることができなかったのだ。望遠鏡で見ることのでいる世界は、肉眼では見ることができなかった。

 私たちが想像して見る世界は、目で見ることができなかった。しかし今ではテレビがどれほどのものを見せていることだろう。

 

 医者は「肺に病気があります。」と言う。彼は私たちの内臓を見ているのだ。気象学は明日やってくるであろう雲を見せる。深海を泳ぎ回る魚たちの写真を、映像を撮る人々は、見ることができないはずの世界を見られるようにする装置が作られていることを示しているのだ。木々は工場のように働き、私たちに果物を与える。私たちはその工場を見ることができなくても、そこには一定の活動があるのだ。超音波装置が登場して以来、母の胎内にいる赤ちゃんの映像すら見ることができるようになった。

 

 これらは全て、次のことを示している。すなわち、アッラーは私たちが今現在見ることができない世界を創造されており、私たちはいつかはその世界をも見るであろう、ということである。

 

 そう、その世界の名が、来世(アーヒラ)なのだ。

 

 注意してみるなら、ここには雄大な移動が存在している。

 

 生まれてくるものたちがこの世界へとやってくる時、死ぬものたちはどこへ行くのだろうか?無へと移っていくのだろうか?

 

 私たちは100年前にはまた別の世界にいた。この世界にはいなかったのだ。この世界にはいなかった私たちを、別の世界からアッラーがこの世界へと連れてきてくださったのだ。例えば、今この部屋には象はいない。しかしこの世界に象はいる。そう、わたしたちにとってはいない存在でも、別の世界では、いるのだ。

 

 全てが死んでいき、復活する。死んで復活しないものはなにもない。死後、復活するということ・・・

 

 私たちは死んだ食物を食べている。例えばパンは死んだ食物なのだ。パンの世界を見てみよう。

 

 穀物が収穫され、麦は死んだ。人々は麦を粉挽き機で挽き、粉をこね、窯で焼いた。ナイフで切り、噛み、飲み込んだ。何度も何度も死んだこのパンは、私たちの体で復活した。肉や骨となり、私たちが生きる助けとなったのだ。

 

 ラテン語で「ビタ」とは、生命を意味する。私たちは医者の勧めに従ってビタミンをとり、アッラーのお赦しによって健康を得ている。

 

 畑は巨大な墓場のようだ。麦の種はその墓場で眠る死者なのだ。春が来るとその死体は一つ一つ蘇る。アッラーは目には見えない宝庫から、麦をお送りくださる。

 

 冬には雪が降る。地上は死者の衣装をまとう。春が来ると全てが蘇る。

 

 私たちが食べた肉や植物は、動物の位階から、植物の位階から、人間の位階へと移る。それらはとても喜ぶ。なぜなら私たちがちぎった果物はそこで死んだからだ。胃の中で蘇り、植物の位階から人間の位階へと移ったのである。

 

 大きな木の、一枚の葉が黄色くなっていた。他の葉が緑色のままで枝についているのに、その葉だけがひからびているのは悲しい光景だと私は考えた。

 その葉は、そのあり方によって私に語りかけた。「私は枯れてしまったことを悲しまない。私はこの枝から落ちる。大地は私の母だ。私は母に出会い、そして土になる。アッラーは私をもう一度蘇らせられるだろう。」

 

 このように、全ては死に、そして蘇る。だから死んだものは無になるのではない。この世界から別の世界へと移るのだ。つまり、その生命は続いていくのである。そう、人の体と魂が離れた時、人は死ぬ。しかし魂は、もともといた世界へと戻る。私は100年前にいたところに、死んだ後、また戻るのだ。

 

 次のような質問が思い浮かぶかも知れない。「結局戻るのなら、なぜこの世界に来たのだろう?」

 

 イスラームを生きるために、である。

 

 法律は何のためにあるのだろうか?国家はその存在を感じさせるために法律を定める。国民がいなければ国家も必要ない。しかし国民はいるのだ。そして国家も存在する。

 

 国家が存在する以上、国家は定めた法律の存在を知らしめるだろう。

 

 アッラーは存在する。そしてその存在を知らせるために人間を創造されたのだ。存在を知らせるために、人々とイスラームを送られたのだ。

 

 イスラームが理解されなければ、アッラーも知られることはない。

 

 来世を信じる人は、簡単に罪を犯すことはない。

 

 善と悪とは同じままではあり続けない。そのために、来世が存在するのだ

 

 

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