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聖マルヤム:クルアーンで名前が記される唯一の女性

 

 

 

聖クルアーンは、聖マルヤムを、純潔を守る点で最良の女性、模範として、特に優れた高潔さと潔白さの持ち主である女性と説いています。私たちはマルヤムという名前を、子供に名付けたりして、愛する者たちに与えます。。

偉大なクルアーン解釈者であるファフルッディン・ラージは、自身の解釈で次のように記しています。「アッラーは、アーデムを、その時点の被造物よりもなお優れた特性と共に創造された。そしてアッラーは、魂の強さの成熟と、完全さへの到達を、彼の一族のうち一部に与えられた。彼らはその数を増した。後にヌーフへと、さらにはイブラーヒームへと続きました。そしてイブラーヒームからイスマーイールとイスハックに流れが分かれました。イスマーイールは、聖ムハンマドの聖なる魂が現れ、選ばれることの始まりとなった。イスハックも、子孫から子孫へ、はるかアリ・イムラーンにいたるまで、ヤアコーブの血統の預言者たちの出現、そしてイーシャの血統によって財産の始まりとなった。そしてこの状態が聖ムハンマドにいたるまで続く。全ての預言者は、その当時において最上の選ばれた人たちであった。最後に聖ムハンマドが現れたことにより、預言者性という光、富という栄誉が、聖預言者に受け継がれたのである。」

聖マルヤムの父は、メタンの子イムラーンです。彼も、イーシャの子ダーウード、その子預言者スレイマーンの血筋です。この血統もまた、ヤアコーブの子ヤフダの血筋です。そもそも、聖ムーサーと聖ハールーンのそれぞれの父の名も、イムラーンです。ムーサーとハールーンという二人の預言者のそれぞれの姉の名も、マルヤムです。この二人のイムラーンの間には、1800年という歳月が流れているもといわれています。

そう、聖マルヤムは、このような一族に生まれた人なのです。

これらから到達できる点が、聖イブラーヒーム(アレイヒッサラーム)です。そこからまた、私たちの第二の父聖ヌーフ(アレイヒッサラーム)、そこから、第一の父聖アーデム(アレイヒッサラーム)です。私たちは皆、同じ祖を持つのです。

あるイスラームの学者は以下のように語ります。「そう、あなたは否定できない。あなたが一人の人と同じ大隊にいることによって、彼に対し親友としての結びつきを感じる。そして一人の司令官の命令にともに従うことによって、友としてのつながりを感じる。そして同郷であることによって、兄弟のような愛情を感じる。信仰の与える光と意識によってあなたに示されている、伝えられている神の御名の数だけ、同一であることによる結びつき、一致によるつながり、兄弟としての愛情が存在するのだ。例えば、私たち皆の創造主は同一、私たちの主は同一、崇拝の対象も同一、私たちに糧を与えられる存在も同一、人間に顕示される神の美名の数ほどに、私たちは結びつきを持つ。」

慈しみ深く、潔白という聖マルヤムのイメージが人々の理性に存在し、また純潔と高潔さのシンボルとしての母マルヤムも、私たちの心に存在しています。この愛情があるからこそ、彼女の名前を、私たちは自分の娘たちに与えます。そして「私たちの母」として、彼女を「母マルヤム」と呼ぶのです。女性のイスラーム教徒の中には、彼女を夢で見て、全ての偉大なる人たちの魂に開端章、ヤーシーン章を読み、捧げようとするのと同様に、聖マルヤムの魂の為にもそれを捧げる人々もいます。彼女の存在は、イスラーム教徒とキリスト教徒をお互いに接近させる、私たちの共通項の一つなのです。

聖マルヤムについては、直接的、間接的をあわせ、クルアーンの13の章で35回、言及がなされています。

聖マルヤムの母は、妊娠した時、おなかの中の子がアッラーのために礼拝場で奉仕することを望み、願をかけました。しかし出産にいたり、母は驚きうろたえました。なぜなら生まれてきたのは女の子だったのです。礼拝場で導師になることはできそうにありませんでした。彼女は娘の名をマルヤムとし、アッラーに委ねました。アッラーは彼女のドゥアーをよりよい形で聞き入れられました。男の子が授けられることはありませんでした。しかし、最後の審判の日まで、名誉あるその名が思い起こされ続ける、そして何十億という人々が従う偉大な預言者の母となるマルヤムが、授けられたのです。アッラーは彼女を美しい植物のように育てられました。なぜなら母も、父イムラーンも亡くし、彼女は孤児となったのでした。この栄誉ある家に遺された子を誰が世話するかということでくじが引かれ、結果マルヤムはおばの夫である預言者ザカーリヤの庇護のもとに入りました。

世の女性たちの中で、選ばれた存在であり、清らかさを持っていたマルヤムのもとには、彼女がまだ子どもである時から、天使がおとずれ、褒め称え、感謝と共にイバーダをするべきであることを教えました。彼女の母のドゥアーが認められ、マルヤムは礼拝所の適した場所でイバーダを行いました。天使たちの訪問は続き、マルヤムに吉報をもたらしたのです。「あなたには、マスィーフ・イーサーという、現世でも来世でも名誉と尊さの持ち主となるであろう息子が生まれるでしょう。彼は、アッラーに近しい者たちの一人となり、また、まだゆりかごにいる時に話すでしょう。」と。この驚くべき知らせに、マルヤムは、「私に誰も指を触れることすらなしに、どうやって私の子どもが生まれましょうか。」と応じました。そして「アッラーは、お望みになられたものを創造される。それが何であれ、「あれ」と仰せられることによってそれを実現させられる。」という返事が与えられたのでした。

彼女のもとを訪れたのは天使のみではありませんでした。天国の果実もまた、もたらされました。聖マルヤムが魂の世界へ上昇するごとに、その世界の益が彼女へもたらされるのでした。この状況は聖ザカーリヤの注意を引き、彼は「これらはどこから来たのか?」とたずね、彼女も、この奇跡のゾーンからくる恵みについて、「アッラーの御許から与えられました。」と答えました。

私たちのモスクのミフラブのところには、この脅威の出来事を語るクルアーンの章句が、きれいに飾られ、礼拝場の頭に載せられた冠のようにかかげられているのは、なんと美しい習慣でしょうか。

一時、聖マルヤムは人々から離れ、東の地に引き篭り、また身をさえぎる幕を垂れました。この時のことについてアッラーはクルアーンで次のように仰せられておられます。「かの女はかれらから(身をさえぎる)幕を垂れた。その時われはわが精霊(ジブリール)を遣わした。かれは立派な1人の人間の姿でかの女の前に現れた。」

現れた精霊は、以前天使たちが伝えた吉報と同じ知らせをもたらし、純潔を守っていたマルヤムが驚き畏れるのを見て、アッラーのお力は全てに対し十分であり、この出来事が一つの奇跡として現実に起こるであろう、ということを述べました。

運命があらかじめ定めた形で、聖マルヤムは妊娠しました・・・。

この奇跡が創造されたことについて、次のように分析をされています。「アッラーは、ビザンチン章で、人々の言語や肌の色が様々であることを述べられ、多様な形で創造される力をお持ちであることを示される。聖アーダムを母も父も持たない存在として創造され、それに続く人々を一人の母と一人の父から創造された。聖イーサーも父を持たない存在として創造され、環を完成させられたのだ。」

ヤーシーン章においてアッラーは、全ての被造物をご存知であることを明らかにされておられます。そもそも、全ての天使たちや聖アーダムのように、生命を持つもののそれぞれの祖も、母と父を持たない存在として創造されました。

蜜蜂は、女王蜂がオスから取った精子を一つの袋に集めています。精子がかけられた場合はメスの幼虫となり、かけられなかった場合はオスの幼虫になります。つまりオスの蜂には父親がいないのです。このように、アッラーの創造には、まさに驚くべき、奇跡的な芸術性が存在するのです。アッラーのなされたあらゆる事象において、英知と神秘が存在するのです。私たちがなすべきことは、この創造のハーモニーから教訓を得て、アッラーの荘厳さ、偉大さに対し、一人のしもべとしてなすべきことを果たすことなのです。

聖マルヤムは、陣痛が始まった時、遠方に引き篭もりました。肉体的な痛みと共に、栄進的な痛みと不安がありました。この出産を、人々にどう説明すべきでしょうか。死んで、忘れ去られることを願っていたのでした。しかし神意はそうではありませんでした。聖マルヤムがある丘で、ナツメヤシの幹につかまり、痛みに苦しんでいる時、彼女を慰め、悲しみを癒し、冬を春へと替える、霊的な呼びかけがありました。「悲しんではならない。主はあなたの足もとに小川を創られた。またナツメヤシの幹を、あなたの方に揺り動かせ。新鮮な熟したナツメヤシの実が落ちてこよう。食べ且つ飲んで、あなたの目を冷やしなさい。」

クルアーンの章句が伝えるこのシーンの装飾として用いられる新鮮なナツメヤシと水は、今日、理想的な出産施設のしるしを示しています。新鮮なナツメヤシも、水も、さらには水の音も、出産を容易にし、妊婦にとって安らげて楽な環境を作り出すものなのです。新鮮なナツメヤシは母乳の出をよくするという特質によっても知られています。

また、神聖な示唆として、聖マルヤムには、人といる時に「言葉断ち」をし、誰とも話さないことが教えられました。人々が彼女のところに来ていろいろと話し始めたので、聖マルヤムは布にくるまれた聖イーサーを指さしました。そして聖イーサーも、次のように話したのでした。「わたしは、本当にアッラーのしもべです。かれは啓典をわたしに与え、またわたしを預言者になさいました。またかれは、わたしが何処にいようとも祝福を与えます。また生命のある限り礼拝を捧げ、喜捨をするよう、わたしに御命じになりました。またわたしの母に孝養を尽くさせ、高慢な恵まれない者になされませんでした。またわたしの出生の日、死去の日、復活の日に、わたしの上に平安がありますように。」揺りかごで話したこともまた、一つの奇跡でした。

聖イーサーはそもそも、アッラーの一つの言葉でした。言葉は、赤ん坊の時すでに話したのでした。

 

アッラーが預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)に、クルアーンで、独立した一つの章(マルヤム章)において、かつ、その他の章において聖マルヤムについて語られていることにもまた、当然多くの英知と神秘が秘められています。

特に、聖ムハンマド(彼の上に平安あれ)が、偶像を崇拝し、イスラームを否定する人たちによって受けられた苦痛に対する慰めという観点で、聖マルヤムの身におきた出来事が説かれていることは、非常に重要なのです。

 

 

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