ハディースから見る、子供のしつけ
崇高なるアッラーは人間を、清らかで澄み切った、加工するに適した貴重な原石として創造されました。これは、人間が善にも悪にもなる可能性を秘めていること、そして創造された時から与えられている、心、理性、精神、良心といった繊細な原石を、どのような信仰や文化の中でこねるにしろ、それに応じたものとなる傾向があることを示しています。実際クルアーンでの「アッラーはあなたがたが何も知らない時、あなたがたを母の胎内から生まれさせ、聴覚や視覚や心(知能感情)をも授けられた。必ずあなたがたは、感謝するであろう。」(蜜蜂章78節)という言葉も、人間にアッラーの恵みとして創造の際から与えられている宝石の存在を示すものです。したがって人間は、生命を維持するために何のしつけをも必要とせず、自然のままに生きる動物との相違点として、潜在能力として持っているものをしつけというプロセスを通して発達させ、一定の段階に到達させる必要があるのです。
アッラーはクルアーンで、「あなたがた信仰する者よ、人間と石を燃料とする火獄からあなたがた自身とあなたがたの家族を守れ。」(禁止章6節)と命じられ、子供たちを現世や来世での生に備えさせることが重要な責任であることを示しています。預言者さまも「父親はその子供に、よい徳、美徳以上によいものを残すことはない」とおっしゃられました。そして「子供たちを養い、彼らによいしつけを行いなさい」と命じられ、この役割が決して軽視されるべきものではないことを指摘されました。
しかし今日、子供のしつけといったこの上なく繊細なこの問題のイニシアティブは、完全に習慣や伝統のままであるか、あるいは習慣や伝統における欠点を補うために西洋文化の慈悲深い手に委ねられた状態なのです。これまで、一部の地域において例えば、自分の両親や義両親のそばで親が子供を抱きしめることが非難されるといった過ちを正す目的で、西洋の方針が用いられています。残念なことに、不要な敬意や価値のないしつけという見解のもと、私たちが大切にしているものから隔離され切り離され、行き過ぎや不足が生じている状態なのです。両親は子供が一定の年齢になるとタバコを吸ったり、覚せい剤を使ったり、夜遅く帰宅したり、さらには夜中に外をうろついていたりすることに対処できずにいます。教えの義務を果たすことに関してすら干渉できず、息子や娘に何かを言うとその10倍もの反抗を受けることになるのです。次世代の心からは純潔さや恥といった覆いは取り除かれ、不遜さやふてぶてしさがあたかもその世代のしるしとなっているのです。
子供のしつけにおける原則
預言者さまは、その子供たちとの関係においても、子供のしつけに関するその言葉においても、非常に重要な原則を示されていました。そしてこの新しい芽が成長する際には、過ちを犯すことのないよう、そしてその本質を維持することのできるよう、この原則を絶対に重要視することを忠告されたのです。全体としてとらえるなら、預言者さまが、徳を備えた次世代を育てる上でいくつかの重要な原則を指摘されていたことを見出すことができます。
1 子供のしつけは誕生と共に始まる
預言者さまは、ご自分の子供であれ周囲の子供であれ、その誕生の前からかかわりを持たれていました。そして子供のしつけが誕生時から、あるいはそれよりも前から始められるべきであることを示されたのでした。娘であるファーティマが孫であるハサンを身ごもっていた時には、彼女を訪問して具合を尋ねられました。そして子供が生まれたらご自身に知らせること、知らせる前には子供に対し何もしないことを命じられていました。同じことを孫のフサインの誕生の際にも行われていました。
預言者さまは、新しく生まれた子供に与えられる最初の糧が、徳と知を備えた人の手によるものとなることに重きを置かれました。これはご自身の孫に対してのみではなく、全ての子供を対象としたものでした。アーイシャは、誕生した子供たちが預言者さまのもとに連れてこられたこと、ご自身も子供たちの為にドゥアーされ、タフニーク(ナツメヤシを柔らかくしたものを新生児の上あごなどに触れさせること)を行われたことを伝えています。ムスリムの教育者たちは預言者さまのこの、種々の英知に満ちたこのスンナを、新しく生まれた子供を、学者や徳の高い人の元へと連れていってタフニークを行わせるという形で実践することを勧めています。
アーイシャの表現によれば、新生児の為にドゥアーをし、アッラーにその生涯が恵み豊かなものとなることを望むこともまた、預言者さまの奨励です。預言者さまは子供たちの耳に最初にささやかれるものがアザーンとイカーマであることを望まれました。孫であるハサンとフサインが生まれた時には、右の耳にアザーン、左の耳にイカーマを読まれました。これは、生まれた時点から子供たちがないがしろにされず。教えの真髄と接することが必要であることを示す重要なしるしです。同時にこの実践は、「教育やしつけの時期とは、ゆりかごから墓場までである」という思想を訴えるムスリムの教育者にとっても一つの道標に違いありません。
子供の誕生の後で預言者さまが重きを置かれたもう一つの事柄が、子供によい名前を与えることです。「あなたは審判の日、あなた自身の名と父の名によって呼ばれる」というその呼びかけは幸福の時代において反響を呼び、人々はよい名前を選ぶようになりました。事実ファーティマの最初の子供の誕生時、アリーは彼に「ハルブ(戦い)」という名をつけようとしていました。しかし預言者さまはその名を気に入られず。孫に「ハサン」という名を与えられたのです。さらに、息子イブラーヒームが生まれた際にも、「今晩私には息子が生まれた。彼には父祖イブラーヒームの名を与えた」と言われ、喜びを明らかにされたのでした。
預言者さまは子供が生まれてから最初の7日のうちに、他者にその毛をそらせ、その重さに応じたサダカを与えること、アッラーへの感謝の表現として動物を屠ること、近親者や妻、親友に食事を振る舞い、また子供の誕生の吉報を伝える人にも贈り物をすること、といったスンナを置かれることにより、アッラーが人に与えられる最も重要な恵みの一つが子供であること、子供のしつけにおける責任もその誕生と共に始めることに注意を引いておられるのです。
2 しつけにおいて慈悲と厳しさのバランスを保つこと
預言者さまは本質として、慈悲と愛情に満たされた崇高な性質をもっておられました。いつでも笑顔で、優しい言葉を言われ、慈しみ深いお方でした。預言者さまが孫たちにキスしてかわいがっているところを目にしたアクラ・ビン・ハービスという教友はそれを批判し、「私には10人の子供がいるが今まで誰にもキスなどしたことはありません」と言いました。預言者さまはその態度がよいものではないことを、「慈悲をもって接しない者には慈悲をもって振る舞われない」あるいは別の表現で「アッラーがあなたの心から慈しみを取り除かれたのであれば私に何ができようか」とおっしゃられました。
ヒジュラ歴10年、息子イブラーヒームは16か月もしくは18か月の時に病気になり、預言者さまの腕の中で亡くなりました。預言者さまの目から涙が流れました。それを見たアブドゥルラフマン・ビン・アウフは驚きを隠せず、なぜ泣いているのかを尋ねました。預言者さまはその涙が慈悲、慈しみのしるしであること、息子イブラーヒームへの次のような気持ちを表現されました。「もし再会の約束がなければあなたのためにもっとずっと悲しんでいただろう。それでもやっぱり私たちはあなたの為にとても悲しんでいる、イブラーヒームよ。目からは涙が流れ出るし心は悲嘆にくれている。しかし私たちはアッラーが喜ばれない言葉を口にすることはできないのだ」
預言者さまは「これらは、私にとって現世の二つのバジルのうち最もよい香りのものだ」とおっしゃっていた孫たちを抱かれ、ほおずりされ、抱きしめられました。その愛情はただご自身の子供や孫に対するものではありませんでした。他の子供たちをも愛され、撫でられました。ウサーマ・ビン・ザイドが語っているところによると、預言者さまは彼を片方のひざに、孫のハサンをもう片方のひざに座らされていました。それから二人を抱きしめられ、「アッラーよ、私はこの子たちを愛しています。あなたも愛してください」とドゥアーされました。礼拝の最中に孫がその背に乗った時には、彼が自分から降りるまでサジュダを長く続けられました。さらに、礼拝の後人々のうちの一人が「アッラーの使徒よ!あなたがあまりにも長くサジュダを続けたので、何か出来事が起こったか、あるいは啓示が下ったかと思いました」と言ったのに対し、「いいえ、そういったことは何もありませんでした。ただ孫が背中に乗ったので、急いで動いてまだ彼が喜んでいるうちに背中から降ろすことはよくないと思ったのです」と答えられました。
ここで重要なポイントを指摘しなければなりません。預言者さまにおいて愛情と慈悲は常に本質的なものであると同時に、慈悲と厳しさの間のバランスをも維持されていました。なぜなら彼はその使命のため、真剣さと強い決意を持った人であられました。教友たちは身なりを整え、その御前にふさわしい状態でない限りは、不遜にあたることを恐れ、預言者さまの前に出る勇気を持ちませんでした。アリーとファーティマもまた同様でした。彼らのその敬意をいつでも目にしていたハサンとフサインもまた、次第に同じような精神の状態を獲得していきました。預言者さまがどれほど優しく振る舞われたとしても、それに対し人々は決して不作法であることはなかったのです。
愛情と厳しさの間のバランスは、教育という観点からも重要なポイントです。生徒たちの感情を見守り、彼らの悩みを聞き、頭をなで、手をとり、そのニーズに応えることは確実に重要です。しかし彼らに対し厳しさや威厳を維持することも非常に重要なことなのです。両親であれ教師であれ、子供や生徒に胸を開き、いつでも彼らに関わり、悩みを分かち合い、必要であれば小遣いを与え、さらには彼らのためには命さえ捧げることができることを示し、愛情を表現するための機会があればそれを生かすべきです。しかし彼らに対する立場と真剣さをも、必ず守るべきなのです。そうでなければ、コントロールを失った愛情は子供をつけあがらせ、思い上がらせ、慢心させることは避けられないでしょう。
アッラーの使徒は子供たちや孫たちがまだとても小さかった時期に彼らを一人ずつ抱かれ、キスをされ、可愛がられ、ドゥアーをされました。それによって慈悲や慈しみの要するところを果たされ、同時にその様子を見ていた教友たちにしつけの原則を教えられたのです。しかし、いまだに私たちが知ることはできない何千もの英知により、預言者さまは孫を胸に抱いた時ですら、いつもの態度、真剣さを維持されていたのでした。
3 子供たちに価値を置き、彼らとかかわりを持つこと
預言者さまは、子供たちを最も美しい現世での恵みと見なされていました。彼らに対する愛情を決して欠かされず、大切な存在であることを彼らに感じさせられていました。預言者さまはある時家を出掛けられ、孫の一人を抱きしめられ、「あなた方子供は人々にとって厳しい試練の要因だ。だから時に人をけちにし、臆病にし、時には無知とする。それにもかかわらずあなた方はアッラーの最も薫り高い恵みなのです」といった言葉で、彼らが貴重な花のようであることを示されています。だから彼らの泣くことに耐えられず、泣く原因になった者に警告を与えられました。礼拝の最中に泣いている子供の声を聴かれた時には礼拝を短く行われ、母親がその子に対応できるように配慮されました。教友のブライダが伝えるところによるなら、預言者さまは礼拝所でフトバを読んでいる際、まだ小さかった孫たちが転びながら歩いてきているのを見てフトバを途中で中断され、彼らの元に行かれ、彼らを胸に抱いて再び説教台に上がられました。そして「アッラーは『あなたがたの富や子女は、一つの試みに過ぎない』(騙し合い章15節)と言っておられますが何と正しいことでしょうか。私も彼らをあの状態で見て耐えることができませんでした」と言われ、フトバを続けられました。
預言者さまは、子供たちと冗談を言い合われ、彼らの理解できるような言葉で話されました。彼らのレベルにふさわしい冗談を言われました。アナス・ビン・マーリクの義理の兄弟であるアブー・ウマイルのとても愛していた鳥が死んだ時には、彼を慰めようとされ、「アブー・ウマイルよ!あなたの鳥はどうしたのですか?今何をしているのですか?」と言った言葉でその悲しみを分かち合われました。子供たちに「わが子よ、わが息子よ」と呼びかけることを求められ、ご自身もこういった表現で子供たちの心を得られていました。道で行き違った子供たちを乗り物に乗せられ、その行先まで連れていかれました。病気になった子供がいるとお見舞いに行かれました。そして教友たちにも模範となられました。マディーナに住んでいたユダヤ人の子供の見舞いに行かれ、彼が死ぬ前にムスリムとなる要因となられました。
預言者さまは、子供たちが何かを必要としていればそれに応じられ、その願いをかなえさせられました。孫たちの一人がのどの渇きを訴えているのを見て、すぐに牛乳を搾ってこられ、彼に飲ませられたのでした。子供たちの清らかな特性を示すものとして、その季節の最初の作物が収穫される際には、収穫物が豊かで恵み多いものとなるようアッラーにドゥアーされ、そこで最も小さい子供が呼ばれ、最初の果実をその子供に与えられました。預言者さまは子供たちと挨拶を交わされ、様子を尋ねられました。
預言者さまは、子供たちが個性を身に着けるよう、彼らとあらゆるところでかかわりを持たれ、価値を置かれ、彼らを理解するため発言権を与えて話を聞かれました。そして彼らの世界に入ろうとされました。子供のころから教友であったラフィー・ビン・アムルが体験したことがその最も良い例です。ラフィーはある時マディーナで、アンサールの一人である人の庭でナツメヤシに石を投げていました。そして教友につかまり、預言者さまのところに連れてこられました。預言者さまは彼を見て、「わが子よ!なぜナツメヤシに石を投げたのですか?」と尋ねられました。子供も、「おなかがすいていたので、食べるために石を投げました」と答えました。それに対し預言者さまは「わかった。それなら二度と石を投げたりせず、木の根元に落ちたものを食べなさい、いいね?」と言われました。そして「アッラーよ!彼を満腹として下さい!」とドゥアーされたのでした。預言者さまは子供が罪を犯した時にはまずその子に話す機会を与えられました。意志や考えを知ろうとされたのです。子供たちはしばしば過ちを犯しますが、過ちを犯していることに気が付いていないことも多いのです。彼らが何をしたのであれ、まず彼らの話を聞き、世界に入り、理解しようとするべきです。このアプローチは、子供のしつけにおいて、子供を大切にし、かかわりを持っていることを示し、大きな影響をもたらすような結果に到達することを助ける態度なのです。
4 宗教的価値観を実践のうちに理解させること
預言者さまは子供たちの宗教教育、そして精神的な真実への理解において、より容易な者から難度の高いものへ、基盤から詳細へと進むべきであることを示されました。このため教えに基づく生き方の根本であり、本質的な心の承認から成り立つ信仰の基盤の示唆を最初に取り上げられたのです。預言者さまはそのおそばに連れてこられた子供たち、そして若者たちに対し、その年齢や段階に応じて、まず信仰の基盤を理解させられていました。実際、話し始めたばかりの親戚の子供たちに、信仰の基盤であるタウヒードの真実について言及している章句やタウヒードの言葉を七回繰り返され、理解させておられました。そして教友たちにもこの点において道を示されたのです。教友の一人ジュンダブ・ビン・アブドゥラーの伝承によると、若者の一団がマディーナにやってきて、短期間預言者さまと共に滞在しました。ジュンダブはその期間、クルアーンより前に信仰の基本を学んだこと、それからクルアーンを学んだこと、このようにして彼らの信仰が強まったことを述べています。これらは、信仰の真実を子供たちにまだ幼いころから、彼らの理解でき、把握できる形で、実践しつつ教えるべきであることを示しています。信仰の真実というものは抽象的な事象であったとしても、そのような事柄を理解するための手段は存在するのであり、この点において最も効果的な手段とは、信仰に関し、実践を通し態度でもって子供たちに把握させることです。信仰の真実を全ての細胞で感じている信者にとってその真実を子供たちにも理解させることは難しくはないことは明らかです。
預言者さまは子供たちに、アッラーの言葉であるクルアーンを教えられました。そして教友にも、子供たちにクルアーンを教えることを奨励されました。母親の望みにより、8歳の時から預言者さまのおそばで子供時代を送ったアナス・ビン・マーリクに、次のことを勧められました。「わが子よ!クルアーンを読むことを忘れてはいけない。クルアーンは死んだ心に命を与える。悪や醜さ、分をわきまえないといった罪に対しても人を守る」さらに教友にもこの事柄を奨励するために次のように仰せられました。「子供たちを次の三つの点において成長させてください。預言者への愛情、預言者への家族への愛情、そしてクルアーンの読み方。生涯をクルアーンを読み、理解しつつ送るクルアーンへの奉仕者へは、何の影も見つけることのできない最後の審判の日、預言者たちや誠実なしもべたちと共に、アッラーの影が与えられるだろう」預言者さまのいとこであるイブン・アッバースは、幼いころに体験した出来事を次のように語っています。「預言者さまが亡くなられた時、私は10歳でした。そして私はクルアーンのアル・ムフケムを読みました」アル・ムフケムとは何であるかを尋ねた人々に対し、それは部屋章以降の68章のことであると答えました。したがって預言者さまのしつけを受けた子供は、クルアーンの教えの元に育成され、小さいころからその段階に応じてしもべとしての務めのために備えてきたのです。
信仰に次いで最も重要な義務の一つである礼拝を子供たちに把握させ、礼拝の意識を伴って成長されることも、子供のしつけにおいて重要な位置を占めます。しもべとしての義務は思春期に始まると予想されるとしても、預言者さまは子供が7歳になったら慣れさせる目的で礼拝を教えること、10歳になってもまだ礼拝を正しく行えないのであれば罰を与えることによってしつけることができることを示されておられます。今日の教育学者によっても、強く教えることのできる時期が7歳前後であることが認められています。子供が7歳になれば、その時までに自らの観察によって、行われている事柄について把握はしているものです。この段階においてはただ、その手をとって、その時までただ観察していた事柄について説明すること、必要に応じ奨励すること、必要に応じては恐れを感じさせつつ警告することが必要なのです。子供はアッラーに対しては6歳もしくは8歳、遅くとも10歳には大きくなったものと認められ、その名誉にも配慮が示されるべきであり、全てを意欲をもって説明するべきなのです。
結論
今日、子供のしつけに関して行われている科学的な研究は、子供の教育やしつけが誕生時から行われるべきであることを示しています。ハディースでは、この過程において行われなければいけないことの一つとして、知と徳を備えた人にタフニークをしてもらい、ドゥアーを行ってもらうことがあり、その耳にささやかれる最初の言葉がアザーンとイカーマであること、よい名前が与えられるべきであること、出生に対し崇高なるアッラーに感謝を示すため犠牲の動物をささげるべきであること、といった奨励がなされていることが理解されます。
幼いころから、愛情と慈悲を強く必要としている子供たちが、英場と慈悲を体現している両親に抱かれること、愛情を十分に受けることもまた、子供のしつけの重要な原則です。同時に、規律のない、バランスの欠けた愛情が、時には子供をつけあがらせ、横暴とする要因にもなり得ることから、慈悲と厳しさのバランスを維持すること、バランスを保っていることも必要です。子供たちをその人生に備えさせ、個性の発達を助けるためにも、彼らを尊重し対応すること、段階に応じた表現を用いること、「わが子よ」といった呼びかけを用いることで喜ばせること、何らかの罪を犯した場合には、罰する前にまず彼らの話を聞くこと、年齢に応じた適切な役割を与え、責任感や信頼を獲得するうえでの助けとなることといった点がハディースで勧められている振る舞いです。子供の教育における最も重要なポイントの一つが、彼らに、自分たち自身の文化や精神的な価値観を最もいい形で学ぶこと、十分に把握することを支えることです。彼らに宗教的価値観を最も適した形で把握させるための手段は、それらを私たちが自ら実践することです。