共鳴する自我と結婚生活の技術
生命は、個人が世界と相互に作用しあうことによって、彼らの自我の中に隠された秘密を明らかにするアリーナである。結婚生活は、2つの自我の相互作用を内包する、人生の一部分である。お互いと共鳴しあう自我は、共鳴しあう行動を生み出す。逆に言えば、調和していない自我は、最終的には結婚生活の破綻につながる行動を生み出す。したがって、円満な結婚生活を守るためには、2人の2つの自我の間に共鳴を生じさせることが不可欠である。この調和は、それぞれの自我を互いに調和させるため、自我と、特別なその手段への理解を必要とする。
男性と女性には、それぞれが人生において果たすべき任務のために最適化された、異なる性質がある。この性質の違いは、根底から異なる自我を必要とする。歴史において見られるように、男性には排他的な自我があり、女性にはより包括的な自我がある。言い換えれば、男性の自我はより自己中心的な生き方に導く。そこでは生活共同体は明白に異なった個人によって形成されるものである。女性の自我はより共同体的な生き方を導く。そこではこの生活共同体はその人自身のイメージである。この違いは、自我の特性が、男性においてより濃度の高い状態で見られることを示す。そしてこれは彼の個人的性格に見出すことができる。そのため、自我の性質と影響を理解するためには、男性を研究することがより容易である。
自我の重要な2つの側面を確認するために、以下の問題を考えてみてほしい。なぜ女性は、医者へ行くことをより好むのだろう。病気になった時、男性はなぜ、最終的な局面に至るまで医者に行くことを拒み、ぐずぐずしているのだろう。女性は道に迷ったらすぐ尋ねることを望むが、男性は助けを乞わずにすむよう必死に試みるのはなぜだろう。女性は何かを固定したり組み立てたりする時にはすぐ専門家に頼むが、男性は困り果て、専門家を呼ぶ以外にはもうどうしようもない、という状態になるまで自分でなんとかしようとし続けるのはなぜだろう。男性が、彼らが何をするべきか、どうやってするべきかということをいわれると怒り出すのはなぜだろう。
これらの問いは、自己充足と自由の本質を明らかにする。そしてこの2つは自我の重要な側面である。それらは非常に強い結びつきを持つ。その片方が侵害されたなら、それはもう一方が侵害されたことをも意味し、片方の容認のためには、もう片方の容認も必要となるほどである。
自分で何でもできるという思い込みによって、自我は、その不十分さを認めることを望まない。自分で何でもできるわけではないということを認めることは、他人から助けを求めなければいけないことを意味する。しかし助けを受けるということは他とのつながりを意味し、それゆえに自由への侵害と見なされるのだ。あるいは、自由でありたいという思いによって、自我はその力の限界を認めることを望まない。なぜなら力への服従は弱さを意味し、したがって自分が何でもできるわけではないということも意味するものであるからだ。
男性と女性は自我の観点から見ると必ずしも同じではないが、双方共に個性というものを持つ。この個性には前述の、自己充足と自由という本能がある。自己充足と自由は、それらがうまく生かされると、お互いにとって人生の目標を達成するために支えあえる、忠実なパートナーを生むことができる。それらが荒々しく、躾けられないままであると、傲慢さ、自分本位さ、そして不幸な結婚生活というものを導くものとなります。長い目で見るなら、躾けのされていない自我は、自己充足と自由という本能に圧倒され、そのパートナーとの関係を容易に絶ってしまう。従って、これらを和らげ、導くための努力が必要となる。
この問題に光を投じるために、以下の例を考えてみよう。金属製品の鍛造や成形には、高温および(あるいはもしくは)高圧が必要である。金属を溶かすのに十分な温度があれば、溶かされたそれを型にいれることによって形成が可能となる。温度が十分に高くないのであれば、形を与えるためには高圧が必要となる。しかし、温度が高いほど、低い圧力で金属の成形は可能である。
自我を鍛錬することは、人の性格を形作ることを意味する。それは、自我を形作ることを必要とする。上記の例のように、自我の躾けには2つのエネルギー源がある。熱は愛情であり、圧力はおそれである。愛情の熱が自我を溶かすのに十分であれば、人格を形成するのは非常に容易である。だから男性の多くは、恋に落ちると別人になるのだ。
しかし、愛情の熱が自我を溶かすのに十分でないならば、おそれという圧力が、その修正のために必要となる。おそれの源は人によって変わる。例えば神への畏れ、孤独への恐れ、尊厳をうしなう恐れなどである。そして、おそれはもう一つ別の形で現れることもある。それは敬意である。おそれの源が何であっても、そしてどのようにそれが現されていても、それは状況によって必要に応じて性格の修正を可能とし、それによって配偶者との関係の安定を守るという目的でなければならない。
結婚生活の後の期間において、熱烈だった愛が弱まった時、そしてその人の真の自我が現れた時、自我の躾けのためにおそれというファクターを使うことはよく見られる。それゆえに、関係の持続を成功させるために特別な努力が必要となるのは、結婚生活のうちでも特にこの期間である。この努力は結婚生活のすべと呼ばれる。これは、美を示す芸術であり、心に秘められた力である。2つの本能、すなわち自己充足と自由を管理下に置き、それらを導くすべである。この技術は人間の特性の問題、性の特性の問題を含み、そして相互の調和を維持するための原則である。
1:人間性
このセクションで論じられるテーマは、男性と女性双方で見られるキーポイントを含むものである。
過去の生き方:人のそれまでの生き方は、その人がその行動をどうして行なうのかという点で影響を及ぼす。だから人は、意思疎通を成し遂げるためにはパートナーの生い立ちを知る必要がある。
過去の生き方についての知識には、2つの側面がある。誕生前の家族の背景と、両親や兄弟や友人たちの雰囲気。誕生前の家族の背景は、赤ちゃんが生まれる状況に関わってくる。家族の経済的、社会的、精神的あり方は、両親の、子どもに対する態度に影響してくる。こういった状況のうち、両親の過去の生き方は、子どもに与えられた心理的メッセージを示す。だから、親を知ることは、その人物を理解する上での重要な手がかりである。周囲の人々の間で相方向的に構成されている雰囲気は、人の本来の個性が、彼らの人生を通じて交流し、作用し合う状況を明らかにしている。この交流は、基準や社会の伝統が何であるかを子どもに教える。これらは個人の動作に動機を与えると共に、制限もする。
過去の経験の結果、人は、その人の生来の性質の前に立つ壁である、性格というものを開発する。したがって、あなたが誰かと交流を持つ時、あなたが対処しているのは、生まれた時からの本質以上に、後で獲得された性質である。それに対応するためには、この第2の個性を理解することが重要となる。過去について理解することはまた、問題に直面した際、忍耐を持ち、慈しみを持ち、そしてより懸命に対応することを可能にする。
生来の性質:これは神によって与えられた性格であり、あるいはその人の本質といえる。
自我は、この世においては性格の特性を通して自らを理解する。自分の生来の性格を知っている人は幸福であり、人生において満たされている。結婚生活における成功もまた、生来の性格がどれほど理解されているか、それが結びつきにおいて生かされているかという点に強くかかってくる。二人は自分自身の生来の性格、そしてパートナーの生来の性格を知る必要があるのだ。そして、幸福な結婚生活を成功させるためにはそれに従って行動しなければならない。
過去の生き方のために、生来の性格は傷つけられ、あるいは抑えられているかもしれない。パートナーは、関係の初期の頃、愛情と承認の雰囲気が、その生来の性格の傷を癒し、本質を取り戻すために必要であると気づく。しかし、本人もパートナーも最初は、どうやって新たに獲得した性質を生かすべきか、どう導くべきか理解できない。お互いを尊重することによって調和が生まれるまで、長い時間がかかる。不調和である状態の結果として、この移行期間において議論が生じる。
生来の性格がさらに抑えられるならば、それを出現させる代わりに、より深い、心因性の心身の症状を引き起こすことがある。例えば家族に対する攻撃的な態度や、現状からの逃避としての長い眠りなどである。さらに、生来の性格の抑制は、コントロールされない心理的メッセージを発することもあり、これは子どもたちにも転写されるものである。これらの秘められたメッセージは、親の心理により、子どもたちに肯定的もしくは否定的な影響を及ぼすことがある。時としてこれらは地価鉱脈のようであり、それは発見されると多くの利益を生じさせる。時としてそれらは、人に、攻撃的な、または(あるいは、かつ)信用できない性格を生じさせるための滞在的なメカニズムのように作用する。
生来の性格の出現と抑制には、滞在的な危険性がある。しかしそれがきちんと扱われるならば、生来の性格の出現は、長い目で見れば有益である。賢明な方法は、お互いに忍耐深くあることである。パートナーが生来の性格を理解でき、家族や社会のより有益なメンバーとなれるようバランスを適度に保てるように。
永遠の愛を探す:あらゆる人は、永遠の愛を見つけたいという本能からくる思いを持っている。この愛はあらゆる意味で人に安らぎをもたらす。この本能は、よく言われる表現にも顕著に表されている。「末永くお幸せに。」
物語はいつも、結婚式のシーンで終わる。その後のことは無関係とされるのだ。
人生は浮き沈みに満ちている。そして人は、他人の心をいつでも完全に満たすことができない。心は満たされるためには、永遠の愛を必要とするからである。従って人は、莫大なかさの心と、人間としての限られた能力を受け入れなければならない。この承認には2つの含みがある。人は他のパートナーが完全に彼らの心を満たしていると見なすべきではない。そして人は、パートナーの心を完全に満たそうと試みるべきでもない。こういう形で、人は最善を尽くすことができる。そして実際、最善を尽くすべきなのである。
隠された愛の条件:全ての人には、隠された愛の形の条件がある。この条件とは、それまでの人生において潜在意識下で形成されたものである。人は、生まれながらの性格が必要としている何かを奪われた場合、その後の人生でそれを求める。 この需要を満たす振舞いは、その人に対する愛のメッセージを伝えるものとなる。 一方、個人の生まれながらの性格は、人が愛情を受けたり、与えたりする方法、愛情を示す言葉を形作る。さらに、人の生来の性格と、それまでの人生における経験との相互作用が、愛の条件を決定づけるのである。
人は自分が誰かに愛されていると感じた時、この愛の条件は自動的に、無意識下に作用を始める。これはパートナーがある行動を行うことが期待されており、また一定の形でそれを行うことが待たれているということである。そしてそれは意識されていない。この秘められた愛の条件の認識不足のため、パートナーはそれに違反することもある。無視された、条件を守らなかったと感じ、両者の関係に不満を感じることは、喧嘩や議論につながる。この状況への解決策としては、自分とパートナーのこの隠された愛の条件の存在を意識し、それらを知り、それに応じて振舞うことが必要となる。
継続的発展: 自我は、多くの可能性を備えた種子に似ている。時間の経過とともにこの可能性は急速に成長する。また過去の経験は無意識という土壌の中に蒔かれる種に似ている。それらは時間がたつにつれて発芽する。一部は子供時代に発芽する。一部は青年時代、そして熟年時代、老年時代にすら発芽する。その結果として、関係の進歩に伴って、人が遭遇する個性は絶え間なく変化していくことになる。こういった、発芽に似た個性の変化が、本人やパートナーによって後を追われず、管理されなければ、それらはその力を発展させる。この力は、新しい仕事や新しい機会を求める。この状況は、関係のあり方への不満に結びつき得る。そしてそれは、忍耐強く振舞わない場合、弊害をもたらすものとなり得るのだ。
2 男女間の違い
男性と女性には、それぞれの世界を構成する異なった要素がある。パートナーとの間の均衡と調和を得るために、これらの要素の違いと類似性を理解しなければならない。
1人でいることへの必要性:人によってレベルは異なるが、男性は1人で居ることへの必要性を持つ。この生来の必要性は、彼らの個々の自我による。自我は自由と自足を求めるのである。1人でいることは、男性にとっては自分の心の問題を解決する手段である。自分を日常の窮屈な限界から解放し、リラックスする手段である。一方、女性はストレスを解消したり、活動を行ったりといういくつかの場合に、仲間を必要とする。これは女性のより社会的な自我に基づく。
このニーズの相違は、男女の間に容易に議論を引き起こし得る。家で十分な自由がなく、ストレスが与えられているということに男性は不平を言い始めるだろう。それに対し女性は、男性が家族のために時間を費やすことを怠っていると不平を言うだろう。両者がパートナーの見方を理解しておくことは非常に重要である。女性は、1人で居るという需要が満たされた男性は、特別な努力をせずとも、まもなく戻ってくるのだということを理解する必要がある。男性は、一緒にいるという需要が満たされた女性は、喜んで彼女の夫を1人にしてくれるだろう、ということを理解する必要がある。
言葉の裏を読む:女性は特に、実際の感情の覆いとして、言葉や動作を用いる傾向がある。以下の例を考えてみよう。苦悩や悲しみがある場合、妻は夫に、非常にささいなことについて、夫のあら捜しをするようになるかもしれない。妻は前兆だとして小さな問題に大きな問題を反映させるかもしれない。そのような態度に出られた時、夫は守りの姿勢に入り、自らをかばい始めるか、大げさだと妻を説得するかの道をとる。どちらの場合においても、妻は「私はあなたの問題を気にかけていないし、あなたが考えていることは間違っている」というメッセージを受け取ることになり、これは話したいという彼女の隠された要求へのどうしようもない破滅的な反応である。
必要なのは、少々の忍耐と、ともに過ごし話を聞くいくらかの時間である。本当の気持ちが攻撃的態度に姿を変えるという例は、他でも見ることが可能である。男性にはそれらを解読する義務があるのだ。
不確定性原理:不確定性原理とは、量子物理学者の間でよく知られているものである。 この記事のテーマと考え合わせ、以下のように解釈することができる。
無限という精度で実体の状態を定義するのは不可能である。何らかの物体のある側面について学べば学ぶほど、その物体の他の面について学ぶことができなくなる。この原則は次のような形で、男女の心理に適用される。男性と女性双方とも、時にはっきりしないという態度をとりたいという本能があり、これは彼らの心理的必要性によるものである。しかし、はっきりしないことへの動機は男女で異なる。夫は、1人で過ごす時間に逃げ込みたいので、妻に対してはっきりしないように自分を見せようとする。一方妻は、夫にいつでも追ってきてほしくて、はっきりしない状態を示すことがある。同じ種類の行動をとっていても、その動機が完全に相容れないことは明白である。だから妻が、夫がはっきりしないことの動機が自分の動機と同じであると見なし、あらゆる場面でいつでも夫を追っていくと、彼女は男性のための不確定性原理に違反することになる。また男性が、彼の妻の求めるところが自分のものと同じであると見なし、妻を放っておくと、彼は妻の期待と完全に反対の行動をとることになる。
男性は男性として扱われなければならず、女性は女性として扱われなければならないということである。
3 保存の原則
保存の原則は、人間の特性の、そしてその性に特有の性質を調和のために鍛錬する基盤を形成する。
人生の目的:パートナーの、人生における目的は、家庭内の調和を応援するものになり得る。特にそれが双方によって共有されるならば。共通の人生の目標、言い換えるなら目的の統一は、必要によってはお互いへの献身やいたわりを引き起こし得る。多くの家庭では、子供を育てることが人生の目的、かつ家族の目標を統一させる機能としてあげられている。両親は子供のため、外の世界の困難さや彼らの関係における問題を克服しようとする。しかし子供を離れ、ボランティア活動、社会奉仕、宗教的奉仕など他の目標を持つことも可能である。こういった活動は、人生に意義をもたらし、その質を向上させ、満足や安定性を家族にもたらすだろう。
愛:情熱な愛、成熟した愛、そして慈しみの愛はそれぞれ同じではないと知り、受け入れることは重要である。情熱的な愛、若年層が激しく求めるこの愛は、この3つの中で最も持続性がなく、短命である。一方、成熟した愛は長く続くもので、燃えるような愛が春が来るたびに花のように咲く、土壌のように機能する。情熱的な愛と成熟した愛の共通点は、愛するものから見返りを求めるという点である。対照的に、慈しみの愛は、愛するものから何の見返りも求めない、愛の最高段階である。母親の子に対する愛情がこの例である。家族の関係の安定のためには、慈しみの愛は不変の位置を占める必要がある。もし慈しみの愛がパートナーの心によく浸透していなければ、情熱的な愛や成熟した愛が弱まった時、その関係はさらなる継続の安定が望めないものとなる。
双方向の敬意:夫婦は、時間がたつにつれて互いへの敬意を失う傾向がある。互いへの敬意の腐食具合は、パートナーと「心安くなる」過程によるものである。互いのいい部分、悪い部分が見え、個人的なことも露出していく、という時期に、「心安くなる」ということが生じる。その結果、パートナーは惹かれる存在ではなくなり、相手が自分にとってどれほど大切な存在だったかをお互いに忘れてしまうかもしれない。この状態は次に述べるような事態の発生にふさわしいものとなる。
ちゃんとしたことが理由で起こったけんかが、パートナーが不適当な言葉で不公平に相手を非難する攻撃的なエゴの争いに発展するかもしれない。議論が穏やかになされていない場合、こういったけんかは、相手の親戚や友人の欠点や不足点を述べ立てる行為につながっていくかもしれない。結果として、当初のフェアな議論は、互いの名誉を踏みにじりあうアンフェアな衝突へと変わってしまうかもしれない。
全ての個人は、心理的世界、そして肉体的、精神的世界にプライベートな領域を持っている。これらのプライベート領域を占めることができるのは、本人が同意するものだけである。パートナーの机や部屋に、その人に属さないものを置いてその空間を埋めてしまうのは、物理的な領域を侵すことの一例である。また、パートナーが同じ気持ちを抱き、同じ考えを持つことを強いるのは、心理的、もしくは精神的領域を侵す例である。これらは必ずしも悪意を持って行われるわけではない。むしろ互いの愛情によってもたらされた心地よさの結果、起こってしまうものである。だから、パートナーに与えた愛の代償として個々の領域の占領を求めない、ということが重要となる。
全ての個人は、異なったレベルの、異なった敏感さを持つ。配偶者が互いの敏感さを妨害しなければ、心地よく愛情深い雰囲気が家庭内で感じられるだろう。人は普通、新しく出会った人々の敏感さに対して慎重であろうとする。しかし残念なことに、長い間知っていて、親しい人の敏感さを無視する傾向がある。この関係が結婚に至った場合は、この法則は配偶者にも適用されるものとなる。敏感さへの無視は、制御不可の神経の噴火をもたらすかもしれない。この噴火は、不要な論争を引き起こし得る。逆に、相手の敏感さに対し慎重であるよう努力すれば、この上ないやすらぎが家庭にもたらされるだろう。
まとめるなら、健全な関係を保つためには、以下の3つの敬意を保持しなければならない。すなわち名誉に対する敬意、個々の領域に対する敬意、そして敏感さに対する敬意である。
評価基準の強度:伝統、宗教、個人的敏感さなどに端を発する、強さの感覚や自分のルールを不要とする態度をもつのは不可欠なことである。人生は、いくつかの習慣を諦めたり、他人のためにいくつかの決まりを放棄したりすることを要求し得る。他人を救うために犠牲を払うことを強いられるかもしれない。家庭の安定と個人の性格の保全のために、人ぞれぞれに、妥協したり犠牲を払ったりする際の合理的な優先順位を持っていることが最も望ましい。
双方向的批評:時には、パートナーが客観的に自分たちを見て、必要に応じて態度を調節できるように、互いに関する批評点を用意し、議論したり、批評を求めたりすることをお勧めする。しかし、この種の試練を皆ができるわけではない。誤りを聞いてそれを受け入れることはそれほど皆に普遍していることではないからである。そのような場合は、この批評が新たなけんかの引き金とならないよう、パートナーが尊敬し信頼している人から助けを求めるのも、1つの解決策かもしれない。
結論:家庭を構成している自我は、一致して行動しなければならず、個人の間の連帯感は、自足や自由を求める自我の侵食に対抗しつつ、持続している。結婚生活の技術は、幸福で永続的な関係のため、自我のこれらの傾向を調節し、誘導することを助ける。全ての夫婦はこの技術を実行するべく努力すべきである。自由や自足はパートナーを統治することはできず、結婚の破綻につながるものである。
このテーマに関する私たちの議論において、貴重な観点を示してくれた私の妻に、感謝したい。