

シリーズ 「私の入信記」 ep.2
アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イッラッラー
アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー 勉強会に参加するようになって、半年経ちました。先日、ついにシャハーダをしました。遅くなってしまったのかもしれませんが、いくら外から勉強しても結局わかりきることは出来ないんだ、ということがやっとわかったからです。 例えば目の前にコップに入った水があって、それを外から見ることで知識を学ぶことは出来ても、水というものに触れたことが無い者にはその触感、存在を真実に理解する事が難しいように。ただ手を伸ばして触れればいいだけなのに。それだけで100の言葉よりも雄弁に真実は語るでしょう。 それと同様、礼拝をせずにアッラーのことを考える事の限界を感じました。 いろいろなことを考えすぎて、新しい自分になることを恐れていた部分も否定できません。 シャハーダをする前日、(当初)史上最大といわれた台風が東京にやってきました。私の会社はビルの13階にあるのですが、ものすごい風でミシミシと聞いた事のない音をたてました。以前なら、そんな近代的なビルの安全性を無条件で信じ込んでい


受け入れる
数ヶ月前に友人ムスリマから「信仰に対する感謝はどうやってあらわしたらよいと思いますか?」と問われた。答えにつまった。何だろう。感謝って、ありがたいと思うこと?それをあらわすというのは・・・。礼拝かな?ズィクルかな?と考えたが、適切な答えが浮かばなかった。 「それはどうやってあらわすのですか?」と逆にたずねると、「受け入れること」です。「不平不満を言わず、喜びも悲しむことでも、すべてを受け入れることです。」(M・F・ギュレン師のことば)という答え。 うーん、むずかしい、と思った。自分にとって良いことであれば喜んで受け入れることができるだろうが、辛いこと、悲しいことを受け入れるのは難しいな、と感じた。 それはアッラーへの深い信頼がなければできないことだと思った。信仰とはどういうものかを考えさせられるきっかけとなった。 その後、マザーテレサの本を読んでいて、
「喜びは祈り、喜びは力、喜びは愛。神は喜んで与える人を愛されます。私たちが、神と人々に、感謝の心を表すいちばん良い方法は、どんなことでも喜んで受け入れることです。」という言葉に出会った。 あー、


「学ぶ」ということ
<学ぶことの重要性> 人は学ぶことにより成熟する 人は学ぶことによって成熟していきます。なぜなら学ぶことは魂の糧であり、成熟する為の源であるからです。学ぶ人は、学ぶにつれて自分がいかにものを知らないかに気が付きます。そして学ぶほどにその内面でさらなる学びへの欲求が高まっていきます。 読まれる本一冊一冊は人に、もっと学ぶべきであるとささやきます。このようにして学ぶことが生きる形となっていき、人は一日たりとも学ばずにはいられなくなるのです。 人類史の偉大な先人たちは、ある意味で学ぶことに取りつかれたような人々でした。いくつかの例を示してみましょう。 偉大な学者であったハンマド・アル・ラーヴィヤは「学問にまだ満足できないのですか、もう十分ではないですか」と尋ねられた時、次のように答えています。「どうしろというのです。全力を尽くしてきましたが学ぶべきことには終わりは見つからない。山を一つ越えると次の山が現れるのです」 年老いた為に学問に疲れ、「こんな年になって、我々に学ぶことは似つかわしくないのではないか」と言って恥じ入っていたアッバース朝のカリフ・マム
アザーン 第二回
ムスリムではない人でも、イスラーム教国に行ったことのある人であれば、夜明け前の町に響き渡るアザーン、あるいは日中、町の喧騒を突き破るように響くアザーン、あるいは夕暮れの街に物悲しいような調べで流れるアザーンを耳にして、心ひかれたり、心を洗われるような気持になったことがある人もいるかと思います。 イスラーム教徒にとって、アザーンは礼拝の時刻を告げるだけのものではありません。アザーンは同時に、現世での暮らしに忙殺され、あるいは没頭し、神を思うという状態から遠ざかりがちな信者の心に呼びかけ、忙殺されていたり没頭し過ぎていたりする現世での生、そこでの不注意さから信者を目覚めさせるのです。 アザーンはアッラーを思い起こすチャンスであり、信仰を持つ人々に信者としての意識を呼び覚ませるものなのです。 同時にアザーンは礼拝、モスク、クルアーンといったものと同様に、イスラームの教えの最も象徴的なものの一つです。またヒジュラ歴元年(西暦622年)から1400年近くを経た現在に至るまで、宗派や地域、時代による一部の細かい違いはあったとしても、ほとんどが当時と同じ形のま
Not In My Name
昨夜遅くに届いたニュースに大変衝撃を受け、この大きな悲しみをどのように表現してよいか分かりません。 改めて、今回の一連のテロにより犠牲になられた湯川遥菜さん、後藤健二さん、そしてヨルダン空軍のパイロット、モアズ・カサスベ中尉、そのご家族、ご友人の皆様に心よりお悔み申し上げます。 この動画は、「Not in my name」という昨今のイスラームの名のもとに行われるテロ行為に反対する人々の声です。各国の言葉で、「テロに宗教はない」「無実な人々を虐げることは野蛮な行為だ」「イスラームはお互いに愛すること、助け合うことであり、正しい行いと道徳の教えである」などのメッセージが添えられています。 どんな理由があったとしても、無実の人々の権利や生命を脅かすこと、 それがイスラームの名のもとに行われることに断固非難します。 「Not in my name」 テロ行為はイスラームと全く違うものです。 世界中の人々、ムスリムの兄弟や姉妹たちが立ち上がっています。 #一般